第10宿本庄宿
ほんじょうじゅく |
武蔵国最後の宿場である本庄宿は利根川の水運で大きく発展し、天保年間には人口4500人余、
本陣2、脇本陣2、旅籠70軒余と熊谷宿同様に中山道の中でも最大規模の宿場であった。
本庄七福神が街道沿いに点在するので七福神巡りも面白い。 |
街道地図 |
| 平成20年6月9日 本庄七福神は七福ならぬ九福神、なんと「銭洗い弁天」が3人も。 |
 深谷宿を出てかれこれ2時間、小山川に架かる滝岡橋を渡り「堤防上の中山道」(左)へ。どこもそうだが堤防上の道は見晴らしがよく、しかも車が通らないので快適。唯一欠点は日陰が無いことだ。
数分で先ほど別れた道に合流。7〜8分歩くと旧道が分かり難い場所があるが歩道の表示に従って歩けば抜けられる。分かり難い道を抜けるとまもなく八幡大神社。その対面、朱鮮やかな山門が見える「宝珠寺参道」(右)がなんとも良い雰囲気。 |
 再び街道を数分。「街道際の石仏群」(左)は庚申塔に地蔵尊、そして賽の神。石仏の素朴さがなんともいいんだなー。
しばらく歩くと傍示堂という場所に。武蔵国と上野国との境界に傍示石ならぬ傍示堂があったそうだ。コメント:この辺が国境だった時代もあった。小さな御堂が集落センターの奥に見える。居合わせた古老に訊ねると「あのお堂は傍示堂ではない「八坂神社」(右)だ。昔は中山道の傍にあったのをこっちに移したんだ」 ということなので、もう一度戻って可愛らしい神社に参拝。 |
岐阜の三好様から「傍示堂一里塚跡」(左)の情報を頂きましたので追記いたします。
場所は「傍示堂の八坂神社」から街道に戻り 新泉橋を渡ってすぐの生コン工場辺りです。説明板や標柱などはありません。
ク゛ーク゛ルマップの検索枠に「傍示堂一里塚跡」と入れクリックすると表示されます。
左の写真は三好様から提供して頂きました。 |
 先ほどの古老が御堂坂のことも話してくれたのだが、少々お怒りであった。「昔、御堂坂で罪人が磔になったんだ。 そこに石の仏様があったんだがいつの間にか無くなって家が建っているのよ。罰当たりだなー」。その石の仏様が坂の途中にある「石仏」(左)ではなかろうか。文字庚申塔と石仏2体。
坂を上り中山道交差点 を渡って数分、左に入った奥の「大正院」(右)。七福神巡りの最初は銭洗い弁天から。 |
 街道に戻り本庄駅入口交差点を右に曲がって1〜2分、さらに右の路地奥に見える「円心寺山門」(左)は天明年間(1781〜1789)の建立だが昭和の大改修で朱に塗られた山門は見る者を圧倒する。円心寺の七福神は福禄寿。
もう少し先の本庄市役所の裏に回ると、そこは「本庄城址」(右)。弘治2年(1556)の築城ということだが城跡の稲荷神社境内にそびえているケヤキは築城時に本庄実忠が献木したものだとか。 |
| 街道に戻り旧中山道を横断して本庄駅近くまで歩くと 城立寺 で大黒天 が拝める。 |
 再び街道に戻り1〜2分、「戸谷八商店」(左)の看板に「創業永禄三年」とある。永禄3年(1560)といえば桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討ち取られた年。以来450年、頑張っているなー。戸谷八の向かい側が元禄2年(1689)創業という回船問屋岸谷。ちょっと先の路地を右に入った奥の開善寺に祀られている七福神は布袋尊。
開善寺に行く路地の数軒先、一見どこにもあるような「仲町郵便局舎」(右)は国登録有形文化財。昭和9年(1934)に建てられた局舎はアールデコ調の仕上げということだが、凡人には分かりません。 |
 本庄宿には2軒の本陣があったが、その内の1軒「田村本陣の門」(左)が歴史民族資料館の前に移設されている。田村本陣は北本陣と呼ばれ本庄駅入口交差点の右側(りそな銀行の辺り)にあった。
本陣門の奥が歴史民族資料館であるが、この建物は明治16年(1883)に建てられた「旧本庄警察署」(右)。明治維新から僅かの時期、しかも東京からかなり離れたこの地にこれだけモダンな建物が造られたとは。 |
| 歴史民族資料館裏側の 慈恩寺に祀られているのは二人目の銭洗い弁天 。 |
 街道に戻り1〜2分歩くと「旧本庄商業銀行」(左)のレンガ造り建物が見られる。味わいのあるレンガ造り建物は今は洋菓子店となっているが かつては銀行が担保に取った繭や生糸などを保管する倉庫だった。
その先の交差点を右に曲がり突き当たると室町時代開山の安養院。小倉家墓地に渡辺崋山や谷文晁、加賀千代女など多くの文人墨客の石碑があるが、「芭蕉の句碑」(右)もある。もの言は 唇さむし 秋の風 芭蕉坐像先刻
安養院の七福神は毘沙門天であった。 |
| 先ほどの交差点に戻り再び旧中山道を横断して次の十字路を左に曲がると泉林寺は寿老人だ。 |
| 街道から出たり入ったりしてしまったが寿老人を見た後はしばらく街道をてくてく。 |
 大きな交差点の手前に鎮座しているのは「金鑚(かなさな)神社」(左)。社伝によると創立は欽明天皇2年(541)とある。気の遠くなるほど長い歴史を持つ神社だ。ここでは恵比寿天が拝める。
旧中山道はどういうわけか県道から離れ金鑚神社の脇を通り、突き当たりを左に曲がって行く。突き当たりの佛母寺で見た三人目の弁財天は弁天様というよりビワを抱いた猫だな。
佛母寺を出て数十メートル歩くと道路際に大きな石碑が建てられているがこれは「茂木小平翁頌徳碑」(右)。説明板によると、仁手村(現本庄市)の村長や児玉郡会議長等を歴任し利根川の治水や殖産興業に尽力。藍綬表彰を賜った人物。石碑は本庄市指定の文化財。 |
 茂木小平翁頌徳碑を見たあと国道462号を横断。その先の旧中山道は「住宅街の中」(左)を通っていく。
時々通る車を避けながらかれこれ20分ほど歩くと「万年寺一里塚跡」左がある。といっても住宅が立ち並ぶ場所なので痕跡などは全く無い。また石碑・標柱・説明板等もない。
この場所は岐阜の三好様が分間延絵図から推測いたしました。 |
 住宅が途切れた畑の奥に赤い鳥居が見えるがここは「浅間山古墳」(左)。古墳時代末期の築造ということだが階段を上ると墳墓の石室入口があり中を覗くことができる。覗いてみたが中は真っ暗。
ちょっと歩くと石造りの橋の欄干が2基並んでいるが、ここは「泪橋跡」(右)。
由来碑によると、
「徳川幕府は街道筋に傳馬なる苦役を課したり。農繁のさなか、極寒風雪の日にも傳馬の人々がこの橋に憩い、家族を偲び身のはかなさを嘆じてか、泪しきりなり」とある。今まで見てきた泪橋とはだいぶ異なる泪が流れた橋であった。 |
 しばらく歩き国道17号を横断した先に「庚申塔群」(左)が見える。傾いていたり、文字が消えかかっていたりと風雪を感じる石塔群であるが、素朴なところがなんとも味わい深い。
十数分歩き金窪館阯入口と刻まれた石柱に誘われて右に入り数分、田園の彼方に見える公園は「金窪城址」(右)。金窪城は平安末期の築城と伝えられているが天正10年(1582)、神流川合戦の前哨戦で滝川一益に攻め滅ぼされ焼失 再建されることはなかった。 |
 街道に戻り数分、左手奥の陽雲寺に武田信玄夫人であった「陽雲院墓所」(左)が見られる。説明板によると 「当寺は鎌倉時代初期の創建と伝えられるが神流川合戦で焼失。天正19年(1591)、武田信玄の甥である川窪信俊が信玄夫人陽雲院を伴って入封。 寺を再建し寺名を陽雲寺と改めている。 陽雲院は元和4年(1582)、当地で没した」
再び街道をてくてくと20分。小学校先に庚申塔が何基か見られる。さらにその先、国道17号を横断すると右手の地蔵堂脇に日本橋から23番目の「勝場一里塚跡碑」(右)がひっそりと。 |
 国道17号を横断したら高崎線のガード下を通った先の大光寺に 寄り道を。神流川(かんながわ)渡し の安全を祈った文化12年(1815)建立の「見透灯籠」(左)がある。
国道に戻り緩い坂道を上ると神流川であるが、ここは本能寺の変直後(天正10年)、滝川一益と北条氏邦・氏直が激しく戦った「神流川古戦場跡」。
「神流川橋」(右) を渡ると、かかあ天下 で有名な上州・上野国。いよいよ群馬県入りだ。
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