第9宿深谷宿
ふかやじゅく |
深谷宿は本陣1、脇本陣4、旅籠80軒余という中山道の中でも最大規模の宿場で、飯盛女も多く
遊郭もあり、これを目当ての客も多かった。
英泉が描いた「岐祖(きそ)街道 深谷之驛」にも多くのなまめかしい女性が描かれている。 |
街道地図 |
| 平成20年5月21日 東京駅にそっくりな駅舎がありました。 |
練馬の榎本様から「東方一里塚跡」(左)の情報をいただきましたので追記します。
熊谷市から深谷市に入ってすぐの右側広場奥に大木が見えるが、ここは東方一里塚があった場所。説明板が建てられている。
コメント:その後大木は切り倒され現在は更地です。道路反対側は鬼林稲荷大明神です。
この写真は榎本様から提供していただきました。 |
 熊谷宿を出て街道をてくてく。新島一里塚で一休みしてから国道17号を横断すると金色に輝く草原が。いやいや「麦秋」(左)でした。麦秋を見るのは久しぶり。あまりに見事だったので1枚。
この先もてくてく歩き小一時間、国済寺町に入ると深谷宿が近い。ほどなく 愛宕神社 に到着。特に名のある神社ではないが境内右手にあったのは「芭蕉句碑」(右)。
冬枯れや 世は一色に 風のおと はせを翁 |
 深谷という町名に関係する国済寺に行きたいのだが入口が分かりにくい。ちょっと迷ったがスーパーの先を左に入ると西通用口に行かれる。通用口から入ると右手に黒門、左手に「三門」(左)、その先に本堂が一直線に並んでいる。三門は「貧・瞋・痴の三煩を解脱する境界の門」だそうだが、そんなことを忘れさせてくれる優美な姿の門だ。
深谷という町名だが、国済寺の梵鐘に「幡羅郡深谷庄」の文字が刻まれているが、これが深谷の由来だとか。
本堂裏手の墓は「上杉憲英公の墓」(右)。憲英は上州新田氏封じ込めの拠点としてこの地に庁鼻和(こばなわ)城を築いたのだが今でも本堂裏に土塁の一部が残っている。
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 街道に戻って4〜5分歩くと街道両側に松の大木が数本。おやっ、これが例の松? しかし表示が無いなー。その先、国道17号との合流点にありました。「みかえりの松」(左)と刻まれた石碑の後ろに少々小さいが2代目「みかえりの松」が。何故「みかえりの松」?。江戸時代、深谷宿で良い思いをした旅人がここまで来てその思いを振り返って眺めた場所だそうな。さぞ良い思いだったのだろうねー。
国道を横断して数分の宿場入口に明治初期に建てられた「東常夜灯」(右)が。 |
 常夜灯から数分、郵便局の先を右に曲がった東源寺前の石碑は「菊図坊(きくとぼう)祖英塚」(左)。 江戸時代中期、縁あって東源寺に居を構え俳句の指導をしていた菊図坊であったが、あるとき辞世の句を残して忽然と去ってしまったのだとか。弟子が建立した碑は深谷市の文化財。
行人橋を渡り数分歩いたら右に曲がり寄り道を。行く先は国道17号を横断した先の「深谷城址公園」(左)。石垣があり立派な白壁の塀もある。期待を持たせる入口であったが中はごく普通の公園。 |
 城址公園から戻る途中、思わぬところに「北川千代文学碑」(左)が建てられていた。中山道には直接関係ないが日本を代表する児童文学者の生まれが深谷だったんですね。
街道に戻る前、ちょっと寄り道して探したのが三高院にある「松平康直墓所」(右)。深谷城1万石の城主、しかも徳川家康の甥とくれば立派な墓所を想像するが探し当てた墓所はかなり質素。 質素すぎる。
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 深谷は偉大な実業家渋沢栄一の生地、そして渋沢栄一が立ち上げた日本で最初の煉瓦製造工場があった地でもある。その煉瓦が使われた建築物が街道沿いにも幾つか見られるが「煉瓦うだつの商家」(左)が目を引く。一階から2階まで続く巨大なうだつは見事。
その100mほど先を左に曲がって2〜3分、まさに煉瓦の町深谷を象徴する建物が見える。この建物はなんと「JR深谷駅」(右)。深谷煉瓦が東京駅にも使われていることから「東京駅を模した駅舎」としたのだとか。もちろん駅前には渋沢栄一の銅像も。
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 その他に煉瓦倉庫なども見られるが造り酒屋 藤橋藤三郎商店の「煉瓦の煙突」(左)も人目を引く。煉瓦造りというと横浜の赤レンガ倉庫を思い出すが煉瓦造りには何か感性をくすぐるものがあるんだなー。
その先数分のところに「深谷本陣跡」(右)の説明板が飯島印刷の駐車場脇に建てられている。この奥の飯島家には今でも上段の間、次の間などが保存されているそうだ。 |
「深谷一里塚跡辺り」(左)の写真を撮影しましたので追記いたします。
場所は深谷本陣跡(現在の飯島印刷)の50メートルほど手前の交差点辺りです。
場所の特定は「中山道浪漫の旅 東編」に記述された内容から推測しました。
グーグルマップに「深谷一里塚跡」と記入し検索すると表示されます。 |
 本陣跡から4〜5分歩くと清酒菊泉の醸造元「瀧澤酒造」(左)。工場の倉庫や煙突も煉瓦造り、さすが深谷。
瀧澤酒造の家と家の間にあった道、ここはまさに「路地」(右)。江戸の下町だったら八つぁんか熊さんが飛び出してきそうな。
「やいやい熊公、なんで急に飛び出すんでー、あぶねーじゃねえか」。
映画のロケにも使われたという路地、風情あるね〜 |
 瀧澤酒造から数分先で道は枡形となるが、その角にある真っ赤に塗られた「呑龍院鐘楼」(左)はかなり人目を引く。
呑龍院の対面に「西常夜灯」(右)があるが、この常夜灯は今でも夜になると灯がともされる。天保11年(1840)に建立された高さ4mほどの常夜灯は中山道の中では最大級の大きさ。
東常夜灯から続いた深谷宿も、西常夜灯の先の枡形道を抜けると宿場の外となり急に寂しくなったのだろうが、今はこの先もずっと家が続く。 |
 枡形道を抜けてその先を左に曲がり踏み切りを渡ると清心寺。山門を入った左の五輪塔は「薩摩守平忠度(ただのり)の供養塔」(左下)。平家武将の供養塔が何故ここに。
傍らの説明板に 「源平一の谷の合戦で岡部六弥太忠澄が平氏きっての武将 平忠度を討ち取ったのだが その菩提を弔うため忠澄の領地の中で一番景色の良いこの地に忠度の供養塔を建立した」とある。 岡部六弥太忠澄はなんと情深い人物なのだろうか。
街道に戻り国道17号を横断し瀧宮神社前を通って再び国道17号に合流。しばらく歩いた右奥の源勝院は岡部藩安部家の菩提寺。本堂の左手に見える墓石群は「 安部(あんべ)家の歴代墓碑」(右)。 |
 源勝院を出て街道に戻り左に入ると奥まった一角に見えるのは「高島秋帆幽囚地」(左)。 江戸末期の砲術家であった秋帆は幕府に重用されたが中傷によってこの地の陣屋に10年間幽囚。
街道に戻り7〜8分、普済寺に「平忠度の歌碑」(右)がある。
ゆきくれて 木のしたかげをやどとせば 花やこよいの主ならまし
誰とも分からず平家武将を討ち取った岡部六弥太であったが、箙(えびら・矢入れ)の中にこの一首が入っており、薩摩守忠度と書いてあり、平忠度と知ったのだった。 |
 忠度を討ち取った「岡部六弥太忠澄の墓」(左)が普済寺近くの畑の向こうに見える。保元平治の乱、一の谷の合戦 などで大活躍した忠澄だが、この墓地に夫人玉の井、父行忠とともに静かに眠っている。
街道に戻り10分ほど歩くと旧中山道は国道17号と別れ右に入って行く。入ってすぐ左側の石碑は雲雀塚と呼ばれる「芭蕉句碑」(右)。
原中や 物にもつかず 啼く雲雀 はせを |
 深谷宿を出てかれこれ30分ほど歩き国道17号から旧中山道に入ってさらに500mほど歩いた辺りが「岡部一里塚跡」(左)。島護産泰神社の100mほど手前です。石碑・標柱・説明板等はありません。
この場所は岐阜の三好様が分間延絵図から岡部一里塚跡付近と推測致しました。
塚にあった「富士山碑と小御嶽山碑」(右)がこの先の島護産秦神社の境内左奥に移設されてる。
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 時折り車が通る静かな旧中山道をしばらく歩いた先の善昌寺に高島秋帆が幽囚されていた岡部藩陣屋の「長屋門」(左)が移設されている。
全昌寺入口とは反対側の路地を入り坂を下ると奈良時代にタイムスリップ。ここは「仲宿歴史公園」(右)。奈良時代の倉庫群跡が発掘された場所で校倉造りの倉庫が復元されている。説明板に「武蔵国21郡の一つ榛澤郡の郡役所があった場所」と記されている。今は静かだが当時は賑やかだったのだろう。 |
 街道に戻り数分、三叉路を左に入り、その先を表示に従って右に下っていくと坂の途中に多数の石塔が。この石塔群は「百庚申」(左)と呼ばれており、幕末の万延元年(1860)に地元の有志によって建立されたもの。この年は井伊直弼が暗殺されたり黒船が来航したりと世情騒然とした年であった。
坂を下って国道17号バイパスを横断し、その先の小山川に架かる「滝岡橋」(右)を渡るとかつての本庄藩である。
注:本庄藩は慶長17年に廃藩、天領となった。 |
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