第3宿浦和宿
うらわじゅく |
浦和宿は上・中・下の三町で成り立っており旅籠15軒とあまり大きな宿場ではなかったが、上町の
二日・十七日、 仲町の七日・二十二日、下町の十二日・二十七日に行われる二・七市場で賑わった
宿場であった。 |
街道地図 |
| 平成20年3月21日 鳥居が無い、狛犬ならぬ兎、手水は兎の口から、ここは調(つき)神社です。 |
| 蕨宿を出てから 辻の一里塚跡碑を見て、その先の国道17号を横断し、住宅街の中を歩いて小一時間、ちょっときつい上り坂に差しかかった。 |
  「焼米坂」(左)と呼ばれる200mほどの上り坂。東海道保土ヶ谷宿の先に焼餅坂という坂があったが、こちらは焼米を売っていたという坂道で坂の頂上に建てられていたのは「焼米坂碑」(左)。
15〜16分歩くと「調(つき)神社」(右)という変わった社がある。伊勢神宮へ収める御調(みつぎ)物を収める倉庫群の中に鎮座していた神社。そのためかどうか神社にもかかわらず鳥居が無い。 |
 この神社のもう一つ変わったところは、「狛兎」(左)である。
嘘か真か、 調=つき=月、 ならば兎ということだそうだが、この兎は江戸時代の作。ちなみに神社の創建は崇神天皇の勅命によるもので 1800年の歴史があるのだとか。
この先に味わいある民家が数軒あり少し先の浦和駅入口交差点向こう側に「浦和宿碑」(右)が建てられている。この辺りから浦和宿となるのだが両側はビルの連続、宿場時代の面影を探すのは難しい。 |
 数分先左側の門前通りと刻まれた石柱のある通りの奥は玉蔵院。本堂横の建物は安永9年(1780)建立という「地蔵堂」(左)だが地蔵堂とは思えない本格的な建物だ。
街道に戻り数分、仲町交差点際の石碑は浦和宿碑。
交差点を渡ったら10mほど先を左に入ると仲町公園という小さな公園があるが、ここは「浦和宿本陣跡」(右)で、本陣跡説明板と明治天皇行在所跡碑が建てられている。 |
  さらに数分歩くと常盤公園へ行く道の入口に野菜を売る「農婦の像」(左)と市場通り説明碑が。
市場があった場所は農婦の像から少し先の慈恵稲荷社頭で「ニ・七市場跡標柱」(右)と「御免市場之杭」(右)が残されており解説板に次のようなことが記されている。
「戦国時代に開設されたものと考えられており、毎月 二と七の日に開かれたので二・七市場と言われている。」 この市場は昭和初期まで続いていた。 |
岐阜の三好様から浦和一里塚跡の情報をいただきましたので「一里塚跡付近」(左)の撮影行ってまいりました。
場所は浦和宿を過ぎてJR高崎線の跨線橋を渡る手前です。分間延絵図を見ると、与野道との分岐点左側に一里塚が
描かれてり、右塚の近くに神社が描かれていることなどからこの辺りと推測しました。
描かれた神社は笹岡稲荷でJR線路の向こうに見えます。
この辺りはJR線路の拡幅工事などが行われたことから道路構造が変わっており正確なことは分かりません。 |
 北浦和駅入り口から5〜6分、「廓信寺」(左)入口に「さつまいもの女王・紅赤の発祥地」と記された説明板が。
年配の方なら 「金時」 と言えばサツマイモを連想してもらえると思うが、その「金時(正式名・紅赤)」を発見した農家の主婦 山田いち が眠っているのが廓信寺の墓地。
しばらく歩いた大原陸橋東交差点の手前、「庚申塔」(右)下の三猿の前に招き猫が。猿に猫、愉快ですねー。 |
 交差点のちょっと先に「一本杉」(左)と刻まれた質素な石碑があるが、ここは日本最後の仇討ちが行われた場所。
話は江戸末期の文久4年(1864)のこと。ここには杉の大木が1本あったが、その下で父を討たれた水戸家臣宮元鹿太郎が助太刀に助けられ 千葉周作門下の河西祐之助を討ち見事本懐を遂げた。
5〜6分歩いた先の交差点右にそびえている欅の大木は「半里塚の欅」(右)と呼ばれている。しかし塚や表示が無いので定かではない。
コメント:「半里塚の欅」は平成22年5月19日の深夜、切り倒されてしまいました。
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