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旅人 例幣使街道道中記ロゴ 例幣使一行

徳川家康の霊柩が日光山に改葬され東照宮が造営されると徳川幕府は朝廷に幣帛(へいはく)の奉納を要求。
朝廷は正保3年(1646)から日光東照宮に勅使(例幣使)を派遣するようになった。このために整備された道が
日光例幣使街道で、中山道の倉賀野宿から分かれ日光西街道・楡木宿までの14宿。 明和元年(1764)からは
道中奉行の管理となり、よく整備された街道であった。その先は日光西街道の鹿沼宿・板橋宿などを経て今市宿で
五街道の一つである日光街道に合流し東照宮に至っている。
例幣使街道の宿場図はこちら





日光例幣使とは

伊勢神宮の神嘗祭に朝廷から幣帛を奉納するために遣わされた勅使を伊勢例幣使と称していた。

江戸時代の正保2年
(1645)、 日光山・東照社に東照宮という宮号が宣下されたことで翌年、朝廷は臨時奉幣使を東照宮に派遣。

以降、毎年奉幣使が派遣されるようになり光例幣使の制度が定着。慶応3年
(1867)まで221回、一度も途切れることなく続いていた。

 
例幣使街道十四宿



日光例幣使の旅程

日光東照宮では4月15日から家康の命日である17日まで大祭が行われるが、この祭礼に間に合わせるべく、例幣使は4月1日に京都を出発。

例幣使の一行
(従者を含めて30〜40人) は草津宿から中山道に進路を取り、木曽路、信濃路を経て碓氷峠を越え上州へ。
4月11日に中山道・倉賀野宿から例幣使街道に入り、日光西街道、日光街道を経て4月15日に日光到着。

16日に奉幣を済ますと 「長居は無用」 とばかりに昼には日光を発ってしまう。帰路は、日光街道・東海道を通って帰京。


上野国の宿場
(群馬県)
下野国の宿場
(栃木県)
倉賀野追分
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@玉村宿
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A五料宿
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B柴宿
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C境宿
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D木崎宿
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E太田宿

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下野国へ
F八木宿
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G梁田宿
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H天明宿
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I犬伏宿
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J富田宿
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K栃木宿
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L合戦場宿
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M金崎宿
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日光西街道楡木宿

中山道倉賀野宿
こちら