(4)保土ヶ谷宿 「やきもち坂」という色っぽい坂道がありました。 |
街道地図 |
江戸を旅立って最初の難所が保土ヶ谷宿先の権太坂。旅人はこの坂を登る前に保土ヶ谷宿で休憩し、英気を養って権太坂に挑んだそうだ。
今でもかなりの急坂だが景色を楽しみながら(といっても途中まではマンションの連続だが)上って行くとさほどの苦にはならない。 |
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平成17年11月8日
![](../hod01.JPG) 神奈川宿の最後に立ち寄った浅間神社から東海道に戻り、保土ヶ谷宿を目指してノンビリ歩いていると昔懐かしい「石倉」(左)が。側面にうっすらと見える文字は ○○質点。
道路に埋め込まれた「旧東海道」(右)のプレートに沿って歩いていると松原商店街のアーケードが見えてきたが、ここは八王子道(浜街道/絹の道)との追分けで「追分標柱」(右)が建てられている。説明書きに「八王子道は・・・・横浜へと絹が運ばれ 絹の道 とも呼ばれています」と。いつか歩きたい街道だ。
その先に保土ヶ谷宿周辺案内図が掲示されているが、このパネルを眺めるのも楽しい。
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ところで松原商店街に入って驚いた。なんとも賑やかで活気のある商店街。人が多くて真っ直ぐ歩けないのだ。 |
![橘樹神社](../../0tokyo/hod03.JPG) 商店街を抜け国道16号を越えた先の説明版が建てられている所は 江戸方見附跡。その先の右側が「橘樹神社」(左)。境内に力石が。品川宿の海運寺にもあったが ここの力石は元祖であるそうな。
相鉄線天王町駅の下を抜けると公園の真ん中に「旧帷子橋」(右)が復元されている。昭和31年(1956)、帷子川の流れを駅の南側から北側に付け替えたのだが南側時代の橋をここに復元したのだとか。
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この先保土ヶ谷駅までは広ーい道に改修されてしまい昔の面影は全く無い。保土ヶ谷駅前を過ぎると道は急に狭くなり再び旧街道の雰囲気が。 |
![金沢横町道標群](../../0tokyo/hod05.JPG) 街道らしくなると助郷会所跡・問屋場跡・高札場跡の標柱や説明板が現れ さらに進むと金沢横町の標柱も。
十字路の向こう側に「金沢横町道標群」(左)が見えるが一番古い道標は天和2年(1682)のもの。300年以上も前。
十字路を真っ直ぐ進みJR東海道線の踏切を越えると国道1号の向こう側に「保土ヶ谷宿本陣跡(苅部本陣)」(右)が見える。塀越しに見える本陣門の立派なこと。
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![脇本陣・藤屋跡標柱](../../0tokyo/hod07.JPG) ![脇本陣・水屋跡](../../0tokyo/hod08.JPG) 国道を横断して本陣跡の前を進むと「脇本陣・藤屋跡」「脇本陣・水屋跡」と続き その先の古民家は「旧旅籠本金子屋」(右)。保土ヶ谷宿に唯一残る宿場時代の建物で明治2年(1869)の建築。
国道の反対側に脇本陣・大金子屋跡、茶屋本陣跡の標柱も見える。保土ヶ谷宿には本陣1軒・脇本陣3軒・茶屋本陣1件のほかに天保13年(1842)には旅籠が69軒もあったという大きな宿場であった。 |
![一里塚と見附跡](../../0tokyo/hod11.JPG) さらに進むと今井川沿いに可愛らしい「一里塚と見附跡」(左)がある。一里塚は復元だが江戸から8番目、見付は京都側の上方見付。その先には常夜灯を配置した松並木が復元されている。
仙人橋を渡った先の「外川神社」(右)は幕末の頃、羽黒山麓の外川仙人大権現の分霊を勧請して祀ったのが始まりで、航海安全と小児の虫封じに御利益があり参拝者が絶えなかったという。 |
ここから国道の右側に移り その先の分岐から旧道へ入って東海道最初の難関の権太坂に挑むわけであるが本日はここまで。
平成17年11月11日
旧道に入ると歩道が無いのでちょっと怖い。樹源寺・旧元町橋跡などを見ながら 突き当たりの丁字路を左に曲がるとすぐに「権太坂」(左)。
細い坂道を上って行くのだが確かにきつい坂だ。
ところで権太坂の云われだが「坂の名前を聞かれた耳の悪い老人が自分の名前を聞かれたと思い、へい、権太でがす」と答えたから ということだったが、「権左右衛門という代官がこの坂を切り開いたので権左坂→権太坂 になった」という新説が説明板に記されていた。 いまさら新説を出されてもなー。
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![投げ込み塚](../../0tokyo/hod14.JPG) 権太坂を上り切った先の丁字路を左に100mほど歩くと「投げ込み塚」(左)がある。旅の途中に命を落とした人を葬った場所で沢山の花がたむけられている。ここでも合掌。
先ほどの丁字路まで戻ると前方に大木が見えてきたがここは「境木立て場跡」(右)。
この辺りが頂上で眺めが良いはずだがマンションに阻まれて見通しが悪い。が、道路の両側が広々とした広場に整備されており、それはそれで気分スッキリ。
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![境木地蔵堂](../../0tokyo/hod16.JPG) 階段の上に「境木地蔵堂」(左)が見える。この地蔵さんは立派なお堂の中に安置されているという幸せな地蔵さんだ。
ところで、ここの地名が境木と言われる所以は、武蔵国と相模国の国境がこの場所で、国境を示す境の木が据えられていたことから境木。わりと安直な地名ですな。今も高さ3mほどの「境木」(右)が設置されている。
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![萩原代官屋敷跡](../../0tokyo/hod18.JPG) 先へ進む前にちょっと寄り道を。 これから歩くやきもち坂ではなくその左側の細い坂道を下り竹林の中の道を行くと「萩原代官屋敷跡・萩原道場跡」(右)にたどり着く。ここは直心影流の道場が開かれ数多くの剣客が訪れた場所。新選組局長の近藤勇も訪れたといわれている。
境木から「やきもち坂」(右)を下って行くわけだが、坂の由来が記された説明板を読むと、「昔、この辺で旅人相手に焼き餅を売っていたから」。 なーんだ、色っぽい話じゃなかったんだ。
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![品濃一里塚](../../0tokyo/hod20.JPG) 焼餅坂を下り、再び上りの品濃坂を行くとほどなく「品濃一里塚」(左)に到着。ここは神奈川県内で唯一、左右の塚がほぼ当時のまま残された貴重な一里塚。残念ながら切通しにしてしまったため塚がかなり高い場所となってしまった。表示が無ければ見落としてしまう。
一里塚の下の道路際に「道標」(右)があり、「戸塚宿←旧東海道→保土ヶ谷宿 」 と刻まれているのだが、この道標、ずいぶん遠慮がちに立っている。
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一里塚を過ぎたら果樹園の横をどこまでも道なりに歩くと下り坂で右にカーブ。ここは間違いそうであるが、道なりには行かず車止めを越えて階段を下り歩道橋を渡っていく。 歩道橋の下は6車線道路、横断歩道無し。旧東海道を歩く旅人
のために歩道橋を造ってくれたとは感謝、感謝。
保土ヶ谷宿を過ぎたので次に目指すは日本橋を出発した旅人が最初に泊まった戸塚宿。 |
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