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街道松 東海道五十三次道中記 街道松

(17) 興津宿  東海の名刹 清見寺には歴史の重みを感じる     街道地図
興津宿は東日本で一番早く鮎漁を解禁する興津川の西側に位置する宿場で、薩埵峠を控えていることから かなりの
賑わいをみせていた。 また飛鳥時代にすでに清見関が設けられていたほど軍事・交通の要衝でもあった。

 平成18年1月5日
峠道の終点薩埵峠碑 薩埵峠展望台、東屋の休憩所などを通り緩い坂を下ってくると「峠道の終点」(左)。
この場所はベンチなどが置かれた簡単な休憩所。この先は階段で一気に下っていく。

ベンチの後ろに現代アート風の「薩埵峠碑」(右)や、歴史などが記された説明板が設置されている。それによると峠道が開通する前は崖下の海岸を波の寄せ退く間合いを見て 親知らず子知らず の状態で駆け抜けたそうだ。  


急な階段をジグザグに下って行くとパッと目の前が開け舗装された真っ直ぐな下り坂に続く。下りきった十字路を左に曲がると 海岸寺 に行かれるが その先は東海道線に阻まれて行き止まり。元の場所まで戻るはめに。  

秋葉常夜灯川越遺跡説明板元に戻り 中の道 を歩くとポツンと「秋葉常夜灯」(左)が、なんとも寂しげ。 しばらく歩き興津川堤防下まで歩くと東海道線のガード少し手前辺りが人足による川越しが行われた場所。「川越遺跡」(右)の説明板が建てられいる。

ガードの先にある「薩埵峠街道の歴史」と題された説明版によると興津~由比間には時代毎に異なる道があった。
最初は親知らず子知らずの 下の道、承応3年(1654)にできた 中の道、朝鮮使節を迎えるために開いた上の道、その他に地蔵道と4種類の古道があった。


宗像神社石塔寺跡説明板の先を右折して浦安橋を渡り1kmほど歩くと「宗像神社」(右)。
石標に女体の森というドキッとする文字が刻まれているではないか。実は、女神(田心姫神・端津姫神・市杵島姫神)が祀られている事から女体の森と呼ばれるようになったそうだが、発想が大胆すぎる。

宗像神社の数分先、交差点向こうに見えるのが 「石塔寺跡」(右)。廃寺となった寺院前の身延山道道標題目碑・七面常夜灯が残されたもの。題目碑は高さ3mを越える大さ。


興津一里塚址碑 興津宿東本陣跡碑 興津宿脇本陣水口屋跡碑 興津宿西本陣跡碑
題目碑の少し先に「興津一里塚址碑」が民家の脇にひっそり立っている。 しばらく歩くと「興津宿東本陣跡碑」、道路左側には「脇本陣水口屋跡碑」、その先右側に「西本陣跡碑」と宿場の中心が続く。

清見寺」山門

清見関跡碑と傍示杭礎石東海道屈指の名刹「清見寺」(左)(写真は山門)を素通りしたらバチが当たる。約1300年ほど前の白鳳年間に清見関が出来たとき、関所の鎮護として仏堂が建立されたというから歴史は古い。以来、足利尊氏、今川義元らの帰依を受け、さらには三つ葉葵の紋も許されたという由緒ある寺院。

山門をくぐり東海道線を越えると、さらに境内へ入る山門がある。事前に得た知識のせいか山門を入るときからなんとなく重みを感じる。徳川家康公が接ぎ木したという臥龍梅は結構な迫力。

駐車場右側の石塔は東北の蝦夷に備えて白鳳年間(645~710)に設けられた「清見関跡碑」(右)と「傍示杭礎石」


高山樗牛假寓之慮碑坐漁荘(復元)清見寺の駐車場を出てすぐの道端に立つ石碑は「高山樗牛假寓之慮碑」(左)。樗牛は鎌倉で亡くなったが、その2年ほど前にこの地に滞在したことがあり、それを知ってもらおうと碑を建てたようだ。

樗牛碑からちょっと先の左奥に坐漁荘址碑があり復元された「坐漁荘」(右が建つン)。
坐漁荘は西園寺公望公が晩年に建てた別荘で明治村に移築されてしまった。この建物は静岡市ができるかぎり忠実に復元したもの。受付に申し込めば見学OK。  


 この先は江尻宿まで約1時間の歩き。静清バイパス高架下から左の旧道に入り、再度国道1号に合流した向こう側に「延命地蔵堂」「秋葉常夜灯」(下左)。
 国道1号の右側を歩くとまもなく「念仏供養塔」、その先に格子戸が付いた「東光寺山門」(下右)。
延命地蔵堂 秋葉常夜灯 念仏供養塔 東光寺山門

この先も「旧東海道の松」、お堂が真っ白に塗られた「延命地蔵堂」「馬頭観音」「細井の松原跡」などと見所が続く。
旧東海道の松 延命地蔵堂 細井の松原跡

次回は細井の松原跡から江尻宿を目指す。

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