(22) 藤枝宿 日蓮上人お手植えの松、それはそれは立派な松でした。 街道地図 |
藤枝宿は江戸から数えて22番目の宿場で田中城の城下町。徳川家康もしばしば立ち寄ったと云われているが、
家康の死因と言われる天ぷらは この田中城で食べたと伝えらる。天ぷらはともかくとして藤枝宿では今まで
見られなかったユニークな方法で宿場を案内しており旅人を喜ばせてくれる。また跡碑をきめ細かく設置した
青島史跡保存会の皆さんには頭が下がる。 |
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旧街道の入り口に設置されているのは「巌村領傍示杭」(左)。木製での復元だが嬉しいことだ。
5分ほど歩くと朝比奈川に掛かる横内橋。ここに「横内歴史案内板」(右)が設置されており、ベンチも用意され簡単な休憩所となっている。 |
休憩所の奥に「川除地蔵」(右)などもありあるので「ちょっと一休み」。
横内橋を渡って10分ほど歩くと県道82号に合流するがその手前には西側の「巌村領傍示杭」(右)が設置されている。西側の巌村領傍示杭横の県道81号を横断し再度県道を横断すると車が少なく静かな旧東海道が続く。 |
数分先の 枝を思い切り広げた大木は「須賀神社の大クス」(左)。樹齢500年、江戸時代以前からこの地で旅人を見守っていたとはすごい。須賀神社の先に鎧ケ渕と観音堂があるのでちょっとだけ覗いてみた。
その先の松並木を過ぎ 国道1号を横断すると再び旧東海道。 数分歩くと「東海道藤枝宿左車町」(右)の標識があるが この辺りが藤枝宿の東木戸。
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藤枝駅から新静岡行きのバスで藤岡入り口下車。さあ出発だ。 ちょっと歩くと右側に成田山の大きな看板。その前をてくてくと歩く。 |
商店街をしばらく歩くと左側の歩道の敷石に「問屋場跡」(左)と記された絵タイルがはめ込まれている。 矢印の前が問屋場があった場所ということになるがユニークな方法だ。絵もあって楽しい。
さらに先へ歩くと小川眼科前に「白子由来記の碑」(右)。本能寺の変の折、伊勢白子の住人小川孫三が徳川家康を助けたことで恩賞を受けこの地に移住したのだとか。
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白子由来記から数分の右側に松の木と「秋葉常夜灯」(左)。その後ろは蓮生寺。写真は小さいので分かりにくいが常夜灯の足の部分が ガニマタの足のようでなんとなく滑稽。
道路左側を7〜8分歩くと絵タイルに大慶寺とある。路地を入ると見上げるような松の大木。日蓮上人お手植えの「久遠の松」(右)で樹齢700年、樹高25m、幹回り7mという巨木。久遠の松さん、松食い虫などに負けずにあと700年生きてくれよ。
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大慶寺から数分先の右側、商店の前に「下本陣跡」(左)、20mほど先に「上本陣跡」(左)、その先の交番前に「問屋場跡」(右)、それぞれに絵タイルが埋め込まれ案内してくれる。
石碑を建てる代わりに絵タイルという方法も面白い。しかし後世まで残すならやはり石碑だろうな。重みが違う。
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問屋場跡のすぐ先の交差点を渡り右に曲がると足下に瀬戸谷街道と刻まれた小さな道標が。その先に常夜灯があり、ひなびた街道の雰囲気が残る道が続いている。 |
東海道に戻ると すぐ先に正定寺の山門が見えるが、この寺の「本願の松」(左)が立派。江戸時代中期の享保15年(1730)に田中城主・土岐丹後守頼稔が植えたと伝えられる。横に伸びた枝振りの見事なこと。この松は藤枝市指定の天然記念物。
正定寺先の勝草橋を渡ると「秋葉常夜灯と志太一里塚跡碑」(右)が、なんと檻の中に入っているではないか。大事にする気持ちは分かるがここまでしなくてもいいと思うがなー。
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一里塚から10分ほど歩き国道1号の横断陸橋を渡り再び旧東海道に。 |
青島史跡保存会が田中藩傍示石蹟碑以外にも実にきめ細かく碑を建てている。順番に見ていくと六地蔵堂のすぐ先右側に古東海道蹟碑、その先左側に東海道追分け道標、
7〜8分歩くと千貫堤碑、千貫堤碑の反対側に染飯茶屋蹟碑と続く。
コメント:各碑には跡ではなく蹟が使われているのでそれに従った。
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西側の田中藩領傍示石蹟碑から20分近く歩くと「上青島一里塚跡碑」(左)がある。この辺は「松並木」(左)が残っており天気が良ければ快適に歩けそうだが、あいにくこの日はどんよりした曇りで寒い。
一里塚跡碑を過ぎると国道一号に合流し車の騒音とともに西へ向かって行く。六郷駅の手前で一旦右側の旧街道に入り、しばらく歩いた後 国道に戻り栃山橋を渡ってまだまだ歩く。 島田宿は遠い。
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