平成6年に掛川城が再建され、城に続く町並みも整備されたが、今年はテレビで 「功名が辻」が放映されるなど再び城を中心にした賑わいを見せている。
国道1号を西へ歩き大村橋交差点へ来たら夢舞台道標に従って左に入る。さらに歩き続けると「馬喰橋」(左)にたどり着く。橋の親柱が馬の顔なんです。象の顔にも見えるが馬喰橋だから馬だ。
橋を渡ると左側に江戸から58番目の「葛川一里塚碑」(右)が建てられている。その横にほっそりした秋葉常夜灯が。ここから5〜6分歩くと城下町特有の桝形道、「東海道掛川七曲がり」。
商店街を西に進むと掛川駅からの道と交差。右に曲がり「緑橋」(左)を渡るとその先が「掛川城天守閣」(右)。 本格的木造で復元したというこだわりの城。日本の城 はやはり木造が似合う。
階段を上がった右側の御殿は安政元年(1854)の建物で国指定の重要文化財。ともに一見の価値があるが開門まで1時間近く。待てない!残念、涙を飲んだ。
掛川城は天守閣だけではなく「大手門」(左)も復元されている。駅に向かって緑橋を渡り次の交差点を左に100mほどの所。門を入った目の前の建物は大手門番所。
大手門も見たのでまた街道に戻るか、ということで旧東海道の交差点に戻ると向こう側の建物に大きな「掛川宿大祭壁画」(右)が描かれているではないか。京都側から歩いてくるといやでも目に入るが江戸側からだとうっかり見逃してしまいそう。城に寄らなければ見落としていただろう。
次の交差点の銀行(二階建て瓦葺の商家風建物)壁面に「山内一豊とその妻」(左)の浮彫刻がはめ込まれている。ちょっと気になるのは一豊の妻千代夫人が内助の功どころか われが妻なりと自己主張しすぎているんだなー。
われが妻なりを忘れて数分、右側に掛川城の「蕗の御門」(右)が。この門は掛川城東側の内堀のほとりに建てられていたもので、廃城後の明治5年(1872)に円万寺が買い受け山門に。
蕗の御門から6〜7分歩くと道が右へカーブするので道なりに歩いていると「十九首塚」(左)への案内標識が見える。 標識に従って右に入ると住宅街のさらに奥まった一角に首塚があった。何カ所かに標識があったので助かったが無ければ????。 今からおよそ千年も前の話。 常陸を始め関東一円を占拠した平将門が朝廷に逆らい日本中を自分の物にしようと企てた。このため朝廷は藤原秀郷を大将にして 将門討伐群を結成。将門軍は天慶3年(940)に滅ぼされ掛川のこの地で首実検を受けたのだった。 検視が済むと首を捨てるように命じられたが・・・・。 秀郷は、朝廷に背いた者とはいえ名門の武将、屍にむち打つことはむごい と一門十九の首を埋葬し丁寧に供養したという。
再び旧東海道を歩くとまもなく国道1号に合流。ほどなく大池橋を渡ると右前方に秋葉神社の「鳥居と遙拝所」(左)が見える。かつては橋を渡ると見上げるような大きな鳥居が立っており、この下を通って秋葉神社へ。
橋を渡って左に曲がるとまもなく天竜浜名湖鉄道のガード。階段を駆け上がって「西掛川駅」(右)に入ると丁度気動車が来るではないか。夢中で何枚かシャッターを。
旧街道に戻り次にめざすは大池一里塚跡。7〜8分先の連祐寺前に夢舞台東海道の道標があるが、ここに「大池一里塚跡」(左)と記されている。石碑だったらもっと良かったんだがなー。
少し歩くと瓦葺き、格子戸の大きな古民家が。由緒有りそうな建物だが近づくと「造り酒屋の建物」(右)であった。 えっ、こんな所に造り酒屋?なんという銘柄?・・・忘れた。メモしておくべきだった。きっと旨い地酒を造っているんだろうな。
国道1号掛川バイパスの高架下を潜り東名高速の下を通って善光寺橋を渡ると「仲道寺」(左)への参道階段がある。その昔、江戸から京都まで測量したところ この寺がちょうど真ん中だったので仲道寺。隣の寺院は善光寺。
仲道寺を出ると「松並木」(右)が続いている。田んぼの中の松並木は まさに安藤広重の絵に出てくる東海道 。 松並木が終わり国道1号に合流し原野谷川の同心橋を渡ると袋井宿へと入っていく。
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