表紙へ戻る  
街道松 東海道五十三次道中記 街道松
(35) 御油宿  松並木だけが印象に残る御油宿であった。  街道地図

御油の松並木

御油宿は山間(やまあい)の小さな宿場というイメージだが本陣が2軒あったのでそれなりの規模の宿場。また姫街道への
追分けの宿でもあり旅籠の数は多く、飯盛女が300人近くもいたという賑やかさであった。だが今の御油にはかつての
賑わいは全く感じられない。

御油宿と赤坂宿との間にある「松並木」(左)は昭和19年(1944)に国の天然記念物に指定された見応えのある松並木。
松並木が終わるとすぐ赤坂宿。宿場間わずか1.7kmという珍しく近くに並んだ宿場である。あまりの近さに芭蕉さんも一句。 
 
夏の月 御油より出でて 赤坂や

 平成18年3月3日
吉田宿最後の伊奈一里塚跡碑を見てから かれこれ1時間、国道1号を横断し、しばらく旧道を歩いたら再び国道1号を横断すると やっと御油宿への旧街道入り口に到着。
半僧坊大権現常夜灯秋葉常夜灯薬師堂

国道1号から左へ交番の前を通って旧東海道に入ると常夜灯が2基。初めて目にする「半僧坊大権現常夜灯」(左)と、その先の空き地には「秋葉常夜灯」(左)。

さらに先へ行くと「薬師瑠璃光如来 薬師堂」(右)がある。薬師如来と書かれ寄進者の名前が記されたノボリが何十本もはためいている。きっとお薬師様のご利益が高いのだろう。


格子戸の民家御油一里塚跡碑数分歩くと右側に「格子戸の民家」(左)が見える。格子戸の民家があると無意識のうちに近づいて何枚も写真に撮ってしまう癖がついてしまったようだが、フィルムカメラだったら後で後悔ものだ。

格子戸の家の少し先に見える森は大社神社。神社の白壁の前を通って信金の前まで来ると植え込みの中に建てられていたのは「御油一里塚跡碑」(右)。なんと、今日は飯村、下地、伊奈そして御油と4カ所の一里塚跡を通過。
  


旧東海道と姫街道の追分け姫街道道標さらに数分歩くと「旧東海道と姫街道の追分け」(左)。秋葉常夜灯・秋葉三尺坊道標・砥鹿神社鳳来寺道標とともに「姫街道道標」(右)が設置されている。 

姫街道とは通称で東海道本坂越という街道名が正式で遠江の見付宿に通じている。
新居関の取り調べが特に女性に厳しかったようで、これを嫌った女性が調べの緩い気賀関を通るルートを選んだことから 姫街道 と呼ばれるようになったとか。
  


ベルツ花婦人ゆかりの地高札場跡追分けを後にしてさらに進み 御油橋 を渡ると昔の面影が少し残る町並みに入って行く。
橋を渡って5〜6分、「ベルツ花婦人ゆかりの地」(左)と記された立て札が立っている。 明治政府が招いたドイツの医学者ベルツ博士と結婚した花婦人の実家が有った場所。

その斜め対面が「高札場跡」(右)。旧東海道はこの四つ辻を右に曲がって行く。


御油宿の復元模型御油宿本陣跡碑四つ辻を右に曲がり次の交差点を左に曲がる道が旧東海道であるが、ちょっと寄り道して御油の松並木資料館を見て行くことに。受付で記帳したら今日の見学者の最初で最後の一人だった。 昔の道具や「御油宿の復元模型」(左)等を見ることができる。

再び街道に戻り ちょっと歩くと道路左端に「本陣跡碑」(右)と説明立て札が。説明によると本陣が2軒あったと記されている。吉田宿と岡崎宿(共に城下町)に挟まれた山間の宿場としては比較的大きな規模であったようだ。


御油の松並木碑御油の松並木本陣跡碑を過ぎるとあっという間に宿場町は終わり。10分ほど歩くと「御油の松並木碑」(左)がありが、碑には 天然記念物 と刻まれている。昭和19年(1944)の指定だが、もし指定されなかったら松根油となってゼロ戦の燃料になっていたかもしれない。

石碑の先から600mほど「御油の松並木」(右)が続く。舞阪の松並木も素晴らしかったが、こちらは江戸時代からの松だと思うとちょっと見方も違ってくる。車が通らなければ最高のロケーションだ。松並木が終わった所が冒頭の写真で この先はすぐに赤坂宿。


 前の宿場吉田宿へ   次の宿場赤坂宿へ    表紙へ戻る