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街道松 東海道五十三次道中記 街道松

(36)赤坂宿 江戸時代から営業が続いている旅籠にはビックリだ。  街道地図
赤坂宿は御油宿からわずか十六町(約1.7m)という近さの宿場であるが大変な賑わいで、当初は1軒であった本陣も
宝永4年
(1711)には4本陣となり、旅籠も亨保18年(1732)には83軒という大きな宿場に発展していった。
しかし、この宿場も御油宿と同様、東海道線から離れていたため明治以降は急速に衰退。それでも当時の面影は
かなり残っている。

 平成18年3月3日

見付跡説明板芭蕉句碑関川神社の大楠松並木が終わり小さな橋を渡ると右側に赤坂宿の 「見付跡説明板」(左) が建てられているが ここから赤坂宿。

数分歩くと天を圧する「関川神社の大楠」(右)が。樹齢800年だとか。
関川神社にあった「芭蕉句碑」(右)に御油と赤坂を入れ込んだ一句が。
   夏の月 御油より出でて 赤坂や  芭蕉翁


問屋場跡説明板赤坂宿本陣跡いよいよ赤坂宿の旅籠街。「問屋場跡」(左)の説明板が民家軒先の高ーい所から下がっている。この看板がなかなか見つからなかったのだが、なんと、こんなに高い所にあるとは。

旅籠街に入ってまず目についたのが「本陣跡」(右)の格子戸門。
松平彦十郎家の本陣跡だが、なんと畳数422畳であったという。6畳程度のビジネスホテルなら70室にもなる。説明書きによると間口十七間半・奥行き二十八間、ざっと31m×50m。でかい!


尾崎屋浄泉寺の大蘇鉄数分歩いた右側の「尾崎屋」(左)という民芸品店には子供のころよく見かけた店前の葦簀(よしず)がまだ健在。時代が逆戻りしたような。

尾崎屋の前の路地を左に入り浄泉寺の山門をくぐると 「東海道五十三次赤坂宿」 の旅籠屋の中庭に植えられていたという「大蘇鉄」(右)が移植されている。
安藤広重が眺めた蘇鉄を自分も眺めていると思うと広重さんと声を掛けたくなってしまうんだなー。


旅籠大橋屋よらまいかん赤坂宿で見逃せないのは旅籠「大橋屋」(左)。正徳6年(1716)の建物が今も健在。びっくりするのはこの建物で今も旅館を営業しているのだという。 
ところで、赤坂宿は歓楽街的な要素も強く、こんな戯れ歌が。
  
御油や赤坂 吉田がなけりゃ 親の勘当うけやせぬ

大橋屋の少し先に「よらまいかん」(右)と書かれた建物があるがここは休憩所。自販機と幅広の縁台が有るだけなので気兼ねなく休憩できる。建物前にある石碑は赤坂宿碑


高札場跡陣屋跡よらまいかん は左側であるが、右側の柵の外側に「高札場跡」(左)の標柱が立っている。標柱の前に安全柵、どっちが先か分からないが写真写りが悪いんだなー。 

高札場跡の20mほど先に「陣屋跡」(右)の説明板。代官屋敷といえば分かり易い。お代官様といえばすぐに悪代官が思い出されるが、これはTVの世界。赤坂宿のお代官様はどうだったのだろうか。


 ここから先は3月17日

杉森八幡宮と夫婦楠十王堂跡標柱京側見付跡標柱陣屋跡から数分歩くと杉森八幡宮の鳥居があり境内には樹齢1000年という見事な「夫婦楠」(左)。関川神社の楠は800年、こちらは1000年。樹には寿命というものがないんだろうか。羨ましいね。   

神社から街道に戻ると右側に「京側見付跡」(右)の標柱があり、ここまでが赤坂宿内ということになる。その斜め前に「十王堂跡」(右)の標柱。


八王子神社参道長沢一里塚跡音羽中学の前を通って10分ほど歩いた先の細い道は「八王子神社参道」(左)。わずかな距離であるが杉木立の中の石段に木漏れ日、なんとも言えない雰囲気が箱根の石畳道を思い出させてくれた。   

街道に戻り一里山庚申道標を見て橋を渡り高速道路の下を通ってしばらく歩くと「一里塚跡」(右)と記された標柱があるが、ここは長沢一里塚があった場所。この辺りは長閑な道で結構楽しく歩ける。


磯丸「みほとけ歌碑」タンポポとツクシの2ショットのんびりと集落を歩いていると石垣の上に観音様と歌碑が見えた。この歌碑は「磯丸みほとけ歌碑」(左)といい念仏供養のために妙香尼が建てたもの。
おふげ人 衆生さいどに たちたまう このみほとけの かかるみかげを 八十二翁 磯丸

まもなく国道一号に合流。ここで『春見つけた』。歩道際の土手に沢山のタンポポとツクシが見える。思わぬ「タンポポとツクシの2ショット」(右)。街道歩きを楽しくさせてくれる一場面でした。


 ここから先は国道1号をてくてくと歩いて間宿(あいのしゅく)の本宿までウォーキングだ。
   コメント:赤坂宿には本陣が3軒と記された資料もあるが、音羽町教育委員会発行の資料では本陣4軒となっているので、本文では本陣4とした。

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