脇往還佐屋街道 ひんやりした冷気と竹箒の音。 なんとも清々しい 街道地図 |
宮宿から桑名宿へは海上七里の渡しが東海道五十三次のルート。しかし脇往還として佐屋街道を通り佐屋三里の渡しで桑名へ
渡るルートもあった。このルートは三代将軍徳川家光のために整備された街道だと云われている。家光が京へ上るとき大変な
船酔いになってしまったため これを聞いた尾張藩主徳川義直が陸路の多い佐屋街道を整備。街道には一里塚はもちろん4カ所の
宿場があり本陣・問屋場も整備されたので多くの大名もこのルートを利用していた。 |
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七里の渡し跡から旧東海道に戻り 三叉の道標前まで来たら右へ曲がると旧東海道、真っ直ぐ行く道が佐屋街道。今は国道一号に阻まれて真っ直ぐには行かれないので警察署前の歩道橋を渡る。
歩道橋から佐屋街道に戻ると「熱田神宮の鳥居」(左)があり参道に続く。
まずは「熱田神宮」(右)に旅の安全を祈願しようと参道に入るとヒンヤリした冷気と「さーさー」という玉砂利を清める竹箒の音。なんとも清々しい。
安全祈願をして佐屋街道の旅へ出発。熱田神宮脇の国道19号、通称伏見通りを北に向かって歩くことに。
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国道の左側を進むと ほどなく熱田神宮公園の一角に「断夫山古墳」(左)がある。東海地方最大という前方後円墳で全長は151mというからかなり大きい。しかし我には小高い丘にしか見えない。
さらに進むと県道と交差する手前に「熱田神宮第一神門址碑」(右)が建てられているが向きが車道側。以前もどこかの石碑が車道側を向いていたが何故に正面が車道側なんだ?
ここまで来る間に源頼朝出生地碑を見落としているようだ。
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第一神門址碑の手前の路地を入った突き当たりの妙安寺にあったのは「芭蕉句碑」(左)。
この海に 草履捨てん 笠時雨 芭蕉翁
野ざらし紀行の終わり近くで熱田の門人 桐葉のもてなしを受けた時の作。
妙案寺を出ると「猫」(右)が。猫好きが黙って通り過ぎるわけがない。この猫とっても恥ずかしがりやなんだ。声を掛けると目を開けてくれるがシャッターを押そうとすると目をつぶってしまう。でも可愛いなー。
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街道に戻り交差点を横断して次の交差点まで来ると「佐屋街道 道標」(左)が設置されている。 文政4年(1821)に建立された道標で 刻まれているのは東西南北各方向の行き先。
「南左さや海道 津しま道」とあるので左へ曲ることに。
しばらく歩き新幹線のガードを過ぎた先の唯然寺山門脇に建てられているのは「五女子一里塚碑」(右)。碑には佐屋街道ならぬ「津島街道一里塚」と刻まれている
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街道を左側に移りしばらく歩いた中川児童館前の石碑は「佐屋街道碑」(左)。佐屋街道は三代将軍家光のために整備されたということは冒頭に説明したが、後に道中奉行が管理する官道に格上げ。多くの参勤交代の大名や明治天皇も通行したという重要な街道でもあった。
この先は変化の少ない道を歩き「岩塚宿場跡」(右)までたどりついた。道路標示に宿場跡を追加した担当者の気づかいが嬉しい。だが、ごく普通の町並みで宿場跡という雰囲気は感じられない。
コメント:この道路標示は撤去されているかもしれない。
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宿場跡表示の先を右に曲がり高速道路の下を通ると尾張3大奇祭の一つ きねこさ祭りで有名な「七所神社」(左)。
この神社の境内裏手に「日本武尊腰掛け岩」(右)なるものがある。説明板に「日本武尊が東夷征伐の後、庄内川の渡船を待つ間、しばらく腰掛け給へる岩なり」 とある。
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七所神社を出て万場大橋を渡り左に曲がると土手の下に「万場宿跡」(左)が見えるが、ここは渡し場周辺にあった秋葉神社・秋葉神社常夜灯・万場渡し常夜灯、明治になって架けられた橋の欄干石などをまとめた場所。
万場宿跡を見た後かれこれ1時間ほど歩き七宝町に。
交差点際の竹垣で囲われた一角の中の大きな石碑は「七宝焼き原産地碑」(右)。
碑の最上部に「shippoyaki Toshima」と刻まれているのがユニーク。
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片側田んぼの中の1本道を20分ほど歩き弓掛橋を渡って50m程先の路地を左に入ると民家の庭先に「源義経弓架け松跡碑」(左)と二代目松がある。民家の庭の中に有るのでちょっと見つけにくい。
下田橋からさらに20分、神守(かもり)町交差点の向こう側に見えるこんもりと木が茂った小山は「神守の一里塚」(右)。この一里塚は日本橋から93里目。
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一里塚から数分、右に曲がってしばらくすると格子戸の家があり なんとなく昔の街道を歩くような雰囲気が。
突き当たりの丁字路向こう側に「神守の宿場跡標柱」(左)が立っているが この辺りが「神守の宿場跡」(右)。だが、今は静かなたたずまいの町だ。
居合わせたおばあさんの話によると「昔ここに本陣があったですよ。ずーと向こうまで大きかったですよ。役場があって、消防署があって、その前には警察署もあったですよ。料理屋もあってあちこちから人が来て賑やかだったですよ。今は静かになってしまった」
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再び県道に合流して日光川を渡るのだが工事中のため渡れない。仕方ないバスで迂回するか。 |
バスを津島市役所前で降り左の道に入りすぐに右へ曲がると常夜灯が見えるが ここが「埋田の追分け」(左)。津島街道埋田追分と記された標柱が建てられており佐屋街道と津島神社方面への分かれ道になる。
常夜灯の手前に「追分け道標」(右)が立っており刻まれている行き先は「左さやみち 右つしま天王みち」。
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常夜灯の手前に「津島神社一の鳥居跡碑」(左)が建てられており その先に鳥居の左右の「根本石」(右)が立っている。かなり大きな鳥居ではなかったかと想像出来るが昭和34年の伊勢湾台風で流され残ったのは根本石だけ。
コメント:一の鳥居跡碑はその後撤去されている。
さすがに常夜灯は重いのでびくともしなかったのだろう。
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このあと長い長い道中が続く。愛宕神社の脇を通り、住宅街の中を通り、田圃の中の道を歩き、名鉄の踏切を越え、やっと内佐屋交差点にたどりつく。交差点を左に曲がる道が佐屋街道であるが ここはまた巡見街道でもあった。左に曲がってほどなくすると「佐屋海道址碑」(左)が建てられている。
ここでは「海道」が使われているが、かつては重要な道は〇〇海道として表記していた。その代表が東海道。しかし江戸時代の享保元年(1716)、新居白石が「内陸の道まで海道はおかしい」と道中いう呼び方の建白書を幕府に提出。これにより東海道以外は道中が使われ、明治に入ると街道が使われた。たとえば、日光海道⇒日光道中⇒日光街道 と。
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須衣交差点を右に曲がるといよいよ佐屋宿。天保14年(1843)には本陣・脇本陣各一軒ずつあったというから小さな小さな宿場 ではない。 |
右に曲がって数分歩くと路地入口に「くいな塚道標」(左)が。
路地を入ると住宅街の中にくいな塚碑が立ち、その奥に建てられているのが「くいな塚(芭蕉句碑)」(右)。
水鶏(くいな)啼くと 人の云えばや 佐屋泊 芭蕉翁
「水鶏が啼くのでその声を聞いていったらどうですか」と勧められ思わず佐屋に泊まってしまった芭蕉さんでした。
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街道に戻り、さらに数分、左側の柵の中に建てられている石碑に刻まれた文字は 「左さや舟場跡碑」(左)。
道路を挟んだ反対側の整備された植え込みは 「佐屋代官所跡」(右)。代官所説明書きによると代官制度が出来たときの最初の代官所がここ佐屋代官所であった。
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ついに到着しました佐屋三里の渡し跡 代官所跡の目の前、丁字路交差点向こう側の公園の中にある石碑が「佐屋三里之渡跡碑」(左)。
しかし今は川は無い。
佐屋の湊から佐屋川を下って木曽川に入り、さらに長島輪中を抜けて揖斐川を横切り桑名まで3里の船旅であった。
残念ながら佐屋川は土砂の堆積が進み ついに明治に入ると渡しが廃止。一方、江戸末期から木曽川に直接漕ぎ出す ふたつやの渡し が栄えるようになり世代交代が行われていく。
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ここまで来たら「ふたつやの渡し」も見なければ気が収まらない。
ということであれば ふたつやの渡しを見た後、桑名まで陸路を歩くことに躊躇しない。須衣交差点まで戻り巡見街道を歩こう。 |
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