七里の渡し跡から旧東海道に戻り 三叉の道標前まで来たら右へ曲がると旧東海道、真っ直ぐ行く道が佐屋街道。今は国道一号に阻まれて真っ直ぐには行かれないので警察署前の歩道橋を渡る。 歩道橋から佐屋街道に戻ると「熱田神宮正門鳥居」(左)があり参道に続く。 まずは「熱田神宮」(右)に旅の安全を祈願しようと参道に入るとヒンヤリした冷気と「さーさー」という玉砂利を清める竹箒の音。なんとも清々しい。
安全祈願をして佐屋街道の旅へ出発。熱田神宮脇の国道19号、通称伏見通りを北に向かって歩くことに。
国道の左側を進むと ほどなく熱田神宮公園の一角に「断夫山古墳」(左)がある。東海地方最大という前方後円墳で全長は151mというからかなり大きい。しかし我には小高い丘にしか見えない。
さらに進むと県道と交差する手前に「熱田神宮第一神門址碑」(右)が建てられているが向きが車道側。以前もどこかの石碑が車道側を向いていたが何故に正面が車道側なんだ? ここまで来る間に源頼朝出生地碑を見落としているようだ。
第一神門址碑の手前の路地を入った突き当たりの妙安寺にあったのは「芭蕉句碑」(左)。 この海に 草履捨てん 笠時雨 芭蕉翁 野ざらし紀行の終わり近くで熱田の門人 桐葉のもてなしを受けた時の作。
妙案寺を出ると「猫」(右)が。猫好きが黙って通り過ぎるわけがない。この猫とっても恥ずかしがりやなんだ。声を掛けると目を開けてくれるがシャッターを押そうとすると目をつぶってしまう。でも可愛いなー。
街道に戻り交差点を横断して次の交差点まで来ると「佐屋街道 道標」(左)が設置されている。 文政4年(1821)に建立された道標で 刻まれているのは東西南北各方向の行き先。 「南左さや海道 津しま道」とあるので左へ曲ることに。
しばらく歩き新幹線のガードを過ぎた先の唯然寺山門脇に建てられているのは「五女子一里塚碑」(右)。碑には佐屋街道ならぬ「津島街道一里塚」と刻まれている
街道を左側に移りしばらく歩いた中川児童館前の石碑は「佐屋街道碑」(左)。佐屋街道は三代将軍家光のために整備されたということは冒頭に説明したが、後に道中奉行が管理する官道に格上げ。多くの参勤交代の大名や明治天皇も通行したという重要な街道でもあった。
この先は変化の少ない道を歩き旧岩塚宿までたどりついた。 岐阜の三好様から「岩塚一里塚跡」(右)の情報を頂きましたので追記致します。 旧宿場街の真ん中辺り、岩塚交番の100メートルほど先に一里塚があったが今は痕跡が全く無い。歩道に「佐屋街道一里塚」と記された絵タイルが埋め込まれている。 右の2枚の写真は岐阜の三好様から提供して頂きました。
突き当りを右に曲がり高速道路の下を通ると尾張3大奇祭の一つ きねこさ祭りで有名な「七所神社」(左)。
この神社の境内裏手に「日本武尊腰掛け岩」(右)なるものがある。説明板に「日本武尊が東夷征伐の後、庄内川の渡船を待つ間、しばらく腰掛け給へる岩なり」 とある。
七所神社を出て万場大橋を渡り左に曲がると土手の下に「万場宿跡」(左)が見えるが、ここは渡し場周辺にあった秋葉神社・秋葉神社常夜灯・万場渡し常夜灯、明治になって架けられた橋の欄干石などをまとめた場所。 岐阜の三好様から千音寺一里塚跡の情報を頂きましたので追記いたします。 万場宿からかれこれ1時間弱、七所社神社の先辺りに一里塚があったが解体され現在は痕跡が無い。住宅前庭の道路際に「千音寺一里塚跡標柱」(右)が建てられている。 この写真は岐阜の三好様から提供して頂きました。
千音寺一里塚跡から30分ほど歩き七宝町に。 交差点際の竹垣で囲われた一角の中の大きな石碑は「七宝焼き原産地碑」(右)。 碑の最上部に「shippoyaki Toshima」と刻まれているのがユニーク。 片側田んぼの中の1本道を20分ほど歩き弓掛橋を渡って50m程先の路地を左に入ると民家の庭先に「源義経弓架け松跡碑」(左)と二代目松がある。民家の庭の中に有るのでちょっと見つけにくい。
下田橋からさらに20分、神守(かもり)町交差点の向こう側に見えるこんもりと木が茂った小山は「神守の一里塚」(右)。17世紀中頃の寛文年間(1661〜1673)に造られた一里塚で佐屋街道唯一の現存一里塚。日本橋から93里目。 一里塚から数分、右に曲がってしばらく歩くと見事な格子戸の家があり なんとなく昔の街道を歩くような雰囲気が出てきた。
再び県道に合流して日光川を渡るのだが工事中のため渡れない。仕方ないバスで迂回するか。バスを津島市役所前で降り左の道に入りすぐに右へ曲がると常夜灯が見えるが ここが「埋田の追分け」(左)。津島街道埋田追分と記された標柱が建てられており佐屋街道と津島神社方面への分かれ道になる。
常夜灯の手前に「追分け道標」(右)が立っており刻まれている行き先は「左さやみち 右つしま天王みち」。
常夜灯の手前に「津島神社一の鳥居跡碑」(左)が建てられており その先に鳥居の左右の「根本石」(右)が立っている。かなり大きな鳥居ではなかったかと想像出来るが昭和34年の伊勢湾台風で流され残ったのは根本石だけ。 コメント:一の鳥居跡碑はその後撤去されている。
さすがに常夜灯は重いのでびくともしなかったのだろう。
須衣交差点を右に曲がるといよいよ佐屋宿。天保14年(1843)には本陣・脇本陣各一軒ずつあったというから小さな小さな宿場 ではない。 右に曲がって数分歩くと路地入口に「くいな塚道標」(左)が。路地を入ると住宅街の中にくいな塚碑が立ち、その奥に建てられているのが「くいな塚(芭蕉句碑)」(右)。 水鶏(くいな)啼くと 人の云えばや 佐屋泊 芭蕉翁 「水鶏が啼くのでその声を聞いていったらどうですか」と勧められ思わず佐屋に泊まってしまった芭蕉さんでした。
街道に戻り、さらに数分、左側の柵の中に建てられている石碑に刻まれた文字は 「左さや舟場跡碑」(左)。 道路を挟んだ反対側の整備された植え込みは 「佐屋代官所跡」(右)。代官所説明書きによると代官制度が出来たときの最初の代官所がここ佐屋代官所であった。
ついに到着しました佐屋三里の渡し跡 代官所跡の目の前、丁字路交差点向こう側の公園の中にある石碑が「佐屋三里之渡跡碑」(左)。 しかし今は川は無い。
佐屋の湊から佐屋川を下って木曽川に入り、さらに長島輪中を抜けて揖斐川を横切り桑名まで3里の船旅であった。 残念ながら佐屋川は土砂の堆積が進み ついに明治に入ると渡しが廃止。一方、江戸末期から木曽川に直接漕ぎ出す ふたつやの渡し が栄えるようになり世代交代が行われていく。 ここまで来たら「ふたつやの渡し」も見なければ気が収まらない。 ということであれば ふたつやの渡しを見た後、桑名まで陸路を歩くことに躊躇しない。須衣交差点まで戻り巡見街道を歩こう。
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