表紙へ戻る  
街道松 東海道五十三次道中記 街道松
(43)四日市宿 弥次さん喜多さんもビックリ。アーケード商店街の旧東海道    街道地図
江戸時代以前から市場が開かれ賑わっていた宿場であるが、やがて毎月4日に大きな市が立つようになった。
この宿場は本陣2軒、脇本陣1軒という中規模の宿場であったが、お伊勢参りへの追分けでもあったことから
伊勢神宮参拝客で賑わっており旅籠は111軒もあった。
 
 平成18年4月20日
朝明橋を渡り坂を下って行くと松寺の立場跡があるがゴミ置き場になっているので写真に撮れない。残念。 コメント:現在はきれいに整備されているようです。

長明寺山門鏡ケ池碑立場跡から十数分歩くと右の奥まったところに「長明寺山門」(左)が見える。この寺院は堀で囲まれているが かつては蒔田氏の居城であった。

しばらく歩いた交差点先の石碑は ほのぼのとした伝説が残る「鏡ケ池碑」(右)。
聖武天皇が通りかかかると一陣の風が吹き笠が池に。と、傍らで洗濯していた娘が拾って差し上げた。翌朝、馬上の天皇と見送る娘が鏡のように澄んだ池に映り まるで一幅の絵を見ているようだったとか。


八幡神社の力石富田一里塚跡碑三岐鉄道のガードと関西本線の踏切を越えて次の交差点を左に曲がり名鉄のガード下を通ると「富田一里塚跡碑」(左)がある。ちなみに三重県内の一里塚は縄生から坂下一ノ瀬まで11カ所。 

古民家の残る富田町を歩いていると八幡神社の前に「力石」(右)が。江戸時代から大正時代までは若者の力持ち競い合い とともに健康長寿への信仰対象でもあった。重さはおよそ100Kg。


明治天皇御駐輦(ちゅうれん)跡碑大正天皇行啓記念道路碑八幡神社のすぐ先右側に「大正天皇行啓記念道路碑」(左)がある。大正天皇が皇太子の時、この道路を通り富田中学校へ行かれたことを記念して建てたもの。大正天皇の記念碑は珍しい。

ほどなく、電柱に大きく「右東海道と書かれているので指示に従って右に曲がり数分、小学校の入り口に「明治天皇御駐輦(ちゅうれん)跡碑」(右)がドカーンと。ご休息した場所とでも理解できようか。


新設用水道碑薬師寺十四橋を渡り常夜灯を見て数分歩くと「薬師寺」(左)に到着。この寺院の本尊薬師如来は弘法大師が万病平癒を願って自ら彫り開眼させたという有り難ーい仏様。なんと、本堂が火事になったときは仏様が自ら門前の松に避難し燦然と輝いていたとか。 

薬師寺からさらに歩くと丁字路の正面にも「力石」(右)が有りました。「新設用水道碑」(右)の隣にある石が力石。こちらの石は明治の中頃、寺院の建設用に集めた石の一つを力競べに使った物。


常夜灯道標力石前を左折し突き当たりを右に曲がると「左四日市 右いかるが」と刻まれた「道標」(左)がある。いかるが といえば奈良、ちょっと遠すぎる? 実は、この先に南いかるが町という地名があるのです。

この後、富田山代有料道路の下を通り 米洗川手前の「常夜灯」(右)を見て、街道松を眺め志氏神社鳥居前光明寺前を通って国道1号に合流。国道に合流したら寄り道を。


羽津城址桑名四日市道標国道の手前を右へ曲がり道なりに数分、踏み切り手前の高台に上ると「羽津城址」(左)。藤原盛宗が城を築き、その後四代続いたが織田信長に攻め滅ぼされ以降再建されることはなかった。

国道に戻り数分、歩道の右側に「道標」(右)が一本。刻まれている文字は 「右桑名道 左四日市道」。ならば左へ。


三ツ谷一里塚跡碑なが餅の笹井屋国道を左側に移りしばらく歩くと上り坂。 その手前で左の道に入り多度神社の前を通ると目の前が海蔵川。堤防のこちら側にある石碑は平成13年(2001)に建立された99番目の「三ツ谷一里塚跡碑」(左)。

海蔵橋を渡り旧街道の三滝橋を渡ると天文13年(1550)創業という「笹井屋」(右)の建物が見える。
36万石大名藤堂高虎が足軽のころ、「吾れ武運のながき餅を食うは幸先よし」と勇んで食べた なが餅を売る店。細長く、ほんのり甘い餅がなんとも旨い。


道標アーケード商店街の旧東海道交差点を渡り道なりに進むと十字路向こうに「すぐ江戸道」と刻まれた「道標」(左)がある。左側面には指差し した手が彫られているので指差し道標とでも言おうか。

道標の次の十字路を右に曲がり国道1号を越えて旧街道に入ると四日市祭りが行われる諏訪神社。その先は「アーケード商店街の旧東海道」(右)。この旧東海道を弥次さん喜多さんが見たらビックリするだろーな。


浜田城址碑鈴木薬局アーケード街を抜け、丹羽文雄誕生地碑を見たりしながら7〜8分。

浜田城址・鵜森神社の案内標識を見たら右に入ると数分で鵜森神社に到着。ここは「浜田城址」(左)でもある。この城も織田信長の家臣滝川一益に攻められ落城したのだという。 

街道に戻り近鉄のガードをくぐって20〜30分、見えた古民家は「鈴木薬局」(右)。製薬業を営んでいた鈴木家の建物で嘉永5年(1852)に建てたものというから150年以上前。今でも無二即治膏・満金丹などの膏薬を販売している。


鹿化橋を渡り、天白橋を渡り??以前も天白橋を渡った記憶があるが 鳴海宿から笠寺の一里塚に向かう途中で。 調べたところ鳴海宿での橋は「名古屋港に流れ込む天白川に架かる天白橋」
こちらは「四日市港に流れ込む天白川に架かる天白橋」。同姓同名の橋とは珍しい。

日永の一里塚跡碑およそ30分ほどをテクテクと歩き、ついに到着しました。
「日永の一里塚跡碑」(左)が倉庫と倉庫の間に申し訳なさそうに立っているがここは100番目の一里塚。
100番目ということは江戸から400キロメートル。あと92キロメートル歩けば京都三条大橋。
思えば遠くまで来たもんだ。

一里塚から20分ほど歩くと国道1号に合流。


日永の追分け追分け道標合流した先で再び二つに分かれるが、ここが「日永の追分け」(左)。お伊勢参りの伊勢参宮道と京へ上る東海道が分かれるが「追分け道標」(右)に刻まれた道筋は「右京大坂道 左いせ参宮道」。

ここには伊勢神宮遥拝鳥居があるが、注目は御神水がこんこんと湧き出ている。と書くと風情があるが塩ビのパイプからジャージャーと流れ出ている。一口飲んでみた。
最初は普通の水。飲み込んだ後なんとなく甘い。やはり「ご神水」だ。

追分けを右に進み、近鉄・内部線の踏切を渡り、今度は左側の旧街道を道なりに20分ほど歩くと内部駅前。


 ここから平成18年5月11日

内部駅前から県道を横切って旧街道に入り内部川を渡ると土手下に見えるのは内部平成の一里塚公園。雨が本降りになってきたのでここで雨宿り。


杖衝(つえつき)坂芭蕉句碑国道1号を横切って旧街道をしばらく歩き金比羅宮の前を左に曲がると「杖衝(つえつき)坂」(左)の上り坂。この坂道に伝説が。
日本武尊が東征の帰途、疲れ果てた身でこの地をお通りになり、あまりのお疲れに腰の剣を杖にして上ったので杖衝坂といえる」と古事記にあり。

坂の途中に「芭蕉句碑」(右)がある。
  歩行(かち)ならば 杖つき坂を 落馬かな 芭蕉翁 
なまじ馬に乗ったものだから落馬しちゃったよ。芭蕉さん、恥かきましたな。ついでに季語を忘れた句を作るなんてよほど慌てていたんでしょう。


血塚社采女一里塚跡碑杖衝坂を上り切った左側の神社は「血塚社」(左)。ここも日本武尊伝説の地。詳しいことは分からないが杖衝坂を上った日本武尊の足から血がにじみ出したので その血をぬぐった場所だと云われている。

坂を上ると采女(うねめ)の集落が続き、やがて国道1号に合流。
なんと国道1号の向こう側に「采女一里塚跡碑」(右)が見えるが渡る術が無い。かなり先まで歩き、横断歩道を渡って戻り、やっと間近に見ることができたのだった。


四日市宿には本陣2軒、脇本陣が1軒あったが跡碑や表示が無かったので見つけることが出来なかった。残念! 
四日市市教育委員会さん、せめて清水本陣跡だけでも表示をお願いできますか。

 前の宿場桑名宿へ   次の宿場石薬師宿へ    表紙へ戻る