(45) 庄野宿 宿場の雰囲気を楽しむ間もなく通り過ぎました 街道地図 |
庄野宿は幕府の直轄地であったが石薬師宿と同様に休息地的な存在で旅籠も15軒と小さな宿場であった。
いまでも格子戸の古民家が残り、昔の面影を感じることができる。 街道を歩いていると 静かなというより
ひっそりした町並みが続く旧宿場町である。 |
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江戸時代をイメージできる田んぼの中の一本道から大型トラックが行き交う国道1号に出て、てくてくと20分。ほどなく「庄野宿資料館の看板」(左)が見えるので 手前の緩い坂道を下って行くと45番目の宿場・庄野宿。
坂を下って100mほど歩いた先の交差点向こう側に建てられているのは 「東海道庄野宿碑と庄野宿説明板」(右)。庄野宿は草分け(早くからこの地に居住)36戸、宿立て(宿駅開設後に居住)70戸という小さな宿場であった。
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庄野宿碑前を左に曲がると、さっそく格子戸の古民家が現れ旧街道の雰囲気が。 |
数分歩いた左側の建物が「宿場資料館」(左)。嘉永7年(1854)に建てられた旧小林家住宅を修復したもので、館内には庄野宿本陣・脇本陣関係の資料や民具が展示されている。
資料館の反対側斜め先の民家に「問屋場跡説明板」(右)が取り付けられているが、その説明書きに「問屋二人、年寄り二人、馬差し各4〜5人が交代で・・・・」とある。
ちなみに、平塚宿の問屋場では宿役人が100人以上勤務していたということであるからかなり規模が小さい。
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問屋場跡のすぐ先、右側の石塔は「庄野宿本陣跡碑」(左)。庄野宿は本陣1軒,脇本陣1軒という小さな宿場であった。
その先が「高札場跡」(右)、さらにその先が「助郷会所跡」(右)。庄野宿のように小さな宿場は助郷が頻繁に行われ、これによって宿場が維持されていた。
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しばらく歩いた先の右奥にある川俣神社境内に「スダジイの大木」(左)が。温暖な地に自生するそうだが、ここのスダジイは樹齢300年、樹高12メートル、幹回り5.8メートル。これは見事。
静かな町並みの終わりは宿場西入口に設置された「庄野宿碑」(右)。あっという間に宿場の外へ出て国道1号に。
旧街道は国道を斜めに横切っているのだが斜めの横断歩道は無いので、その先の立体交差の地下道を通って再び旧街道へ。
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しばらく歩くと、右側に常夜灯・山神碑、左側には「領界傍示杭」(左)があり刻まれている文字は「従是東神戸領」。神戸氏は鈴鹿郡の24郷を領していたが織田信長に降伏。だが結局は絶家。
傍示杭の隣に「女人堤防の碑」(右)と言われる石碑がある。ここは鈴鹿川の氾濫に悩まされた地。堤防の修築を申し出たが許されず女性達が禁を犯し処刑覚悟で堤防を補強。ついに打ち首に。「おーい、早馬が来るゾー」 間一髪、赦免の早馬で救われたという。
あっという間に通り過ぎてしまった庄野宿であった。この先十数分歩くと川俣神社があるが、そこから先は六万石大名石川氏の亀山領となり、向かうは亀山宿
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