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旅人
日光西街道道中記 石仏4体

(1)飯塚宿  (2)壬生宿  (3)楡木宿  (4)奈佐原宿  (5)鹿沼宿  (6)文挟宿  (7)板橋宿

(2)壬生宿 壬生(みぶ)宿は城下町として、また日光参詣客の宿泊地として賑わった宿場だが、
徳川将軍日光社参時の帰路には壬生城に一泊することも多かった。 
街道地図

 平成19年12月12日  あれっ! また金売り吉次の墓が。

杉並木壬生一里塚日光西街道二つ目の飯塚一里塚を見た後 てくてくと30分。壬生町に入ると天を圧する「杉並木」(左)が。だが残った杉が5〜6本だけとは寂しいね〜。

さらに街道を20分、黒川に架かる御成橋を渡り10分ほど歩くと「壬生一里塚」(右)に到着。日本橋から23里目となるこの一里塚は左側だけであるが現存のもので国指定史跡。

縄解地蔵堂蘭学通り一里塚の脇に縄解地蔵への案内板があるので街道を外れるがちょっと回り道を。

15分ほど歩くと「縄解地蔵堂」(左)に行き着くが残念ながら地蔵尊は御堂の奥深く。見ることは出来ない。この地蔵は一本の木から縄目地蔵・延命地蔵・縄解地蔵の三体が彫られ、京都・壬生寺に安置されていた三体地蔵の一体で、後の壬生城主小槻彦五郎が勧請して祀ったもの。 

東武線の踏み切りを越えるといよいよ壬生宿の「蘭学通り」(右)。江戸時代の壬生藩主鳥居家が蘭学を積極的に取り入れていたことから蘭学通りと命名したのだとか。

壬生宿松本脇本陣門壬生宿松本本陣門蘭学通りに入って数分、右側の松本医院駐車場奥に「松本脇本陣門」(左)が控えている。その奥には立派な玄関の母屋があり今でも住居として使われているようだ。

街道を100mほど進み左側の自転車店脇の路地を入ると突き当りに同姓の「松本本陣門」(右)が見える。街道からかなり奥まった場所だが明治に入ってから現在地に移設したとのこと。

壬生城本丸跡畳塚街道に戻り足利銀行横を左に入って5〜6分。壬生城大手門(復元)を入るとその先が壬生城址。堀があり、土塁があり、立派な橋がある。橋の先の「本丸跡」(左)はかなり期待が持てそう。と思ったら噴水公園の周りに公民館、図書館等が建てられており城跡と言う雰囲気は全く無い。ちょっとがっかり。

城跡の裏に精忠神社があるが、さらにその裏の「畳塚」(右)には次のような云われが。
壬生城主であった鳥居元忠は関ケ原の戦いに先立ち、伏見城で石田三成方の大軍と1ヶ月の攻防戦の末 自刃。元忠の忠義を賞賛した家康が自刃の際に血に染まった畳を江戸城に安置。その後、明治に至り江戸城明け渡しの際その畳をもらい受けゆかりの地に埋めたのだとか。

長屋門興光寺山門再び街道まで戻り左へ曲がるとすぐに石崎家の長ーい「長屋門」(左)。建築年代は不明だが門の両側はカメラ店や仕立て屋などの店舗となっており まさに長ーい長屋門。

長屋門のちょっと先、「興光寺」(右)は慶安4年(1651)、徳川家光公の御尊骸を日光へ送納するに先立ち通夜が行われた寺で この時、幕府より葵の御紋が送られている。


 ここから平成20年1月5日

脇本陣と問屋場跡標柱壬生家歴代の墓齋藤玄昌旧宅跡碑興光寺の10m程先、「標柱」(左)があるパオという惣菜屋さんの辺りがもう一軒の脇本陣と問屋場跡。

道路対面のケーキ店辺りは天然痘予防に種痘を取り入れた壬生藩の藩医「齋藤玄昌旧宅跡」(左)でこちらには石碑が。

街道はその先の交差点で左に曲がり国道352号を歩くことになるが左に曲がって4〜5分歩いた先の左奥、常楽寺「壬生家歴代の墓」(左)、鳥居家累代の墓が見られる。

壬生寺慈覚大師産湯井街道に戻り数分歩いた先の右奥は慈覚大師誕生の「壬生寺」(左)。本堂は東京・上野寛永寺内の学問所を移築したもの。

壬生寺には貞享3年(1686) に建立された大師堂や 樹齢350年の銀杏の大木、はたまたライシャワー駐日大使参拝記念桜などが見られるが見落せないのが「慈覚大師産湯井」(右)。

産湯に使われたという井戸は大事に守られ今も昏々と清水が湧き出ている。1200年もの間湧き出るとは奇跡だ!


せせらぎ脇の歩道金売吉次の墓壬生寺を出たら国道352号を歩くのだが、数分先の県道との交差点を過ぎたら道路左側の「せせらぎ脇の歩道」(左)がお勧め。景色を眺めながらのんびり歩くことができる。

かれこれ30分ほど歩いただろうか。右側の田んぼの中にポツンと小さな祠が。この祠が、なんと 「金売吉次の墓」(右) 。奥州街道・白坂宿の先に金売吉次3兄弟の墓があったが ここは石が二つ積まれただけの簡単な吉次の墓であった。説明板に「吉次は奥州・平泉へ逃れる義経の伴をしてここ稲葉まできたが病に倒れこの地で生涯を終えた。とある。どちらも信じたいね。これだから旧街道歩きは面白い。

奥の細道に同行した曽良の日記に次のような記述がある。
「壬生ヨリ楡木へ二リ ミフヨリ半道ハカリ行テ吉次カ塚右ノ方二十間ハカリ畠中ニ有」

芭蕉と曽良もこの墓を見ていたとは、ますます面白くなってきた。

稲葉の一里塚吉次の墓から数分先、水路の左側に日本橋から24里目の「稲葉の一里塚」(左)が現存。道路右側にも小さな山があるが一里塚跡だろうか。

稲葉一里塚は日光西街道に入って4箇所目の一里塚だが、これまではすべて現存しているという一里塚の保存性が高い街道である。 
ちなみに この街道には次の11箇所の一里塚があった。

@喜沢一里塚  A飯塚一里塚 B壬生一里塚 C稲葉一里塚 D赤塚一里塚 E奈佐原一里塚 F鹿沼の一里塚  G富岡一里塚 H小倉一里塚
I板橋一里塚  J室瀬一里塚   あと幾つ、現存しているか楽しみだ。

鯉沼九八郎翁碑馬力神稲葉一里塚から4〜5分、道路右側に「鯉沼九八郎翁碑」(左)と刻まれたかなり大きな石碑が目につく。 明治維新後、各地で起こった自由民権運動の一翼を担った人物。

道路際に真新しい御幣がささげられた可愛らしい「馬力神」(右)がありました。昔からの言い伝えを守って正月に御幣をささげてくれるとは嬉しいことですね。

この先から鹿沼市となるが坦々とした街道はまだまだ続く。

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