(41) 教来石宿 甲斐路最後の橋「国界橋」が目の前に |
教来石(きょうらいし)宿は宿駅業務を行うというよりは甲斐・信濃国境の防備が主の宿場で、山口関所が設けられていた。
地名となった教来石は日本武尊が座った石に由来と伝えられている。経来石(へてこいし) の経が教に誤記されて 教来石
になったということだが。 |
 台ケ原宿を出てかれこれ30分、右の広場奥に2対の石碑が建てられているが その一つは「白須松林跡碑」(左)。この地には平安時代から続く素晴らしい松林があった。が、残念なことに昭和10年代に伐採されてしまったのだとか。
ひょっとして松根油となって零戦の燃料になったのでは。
隣には後醍醐天皇の皇子「宗良親王歌碑」(右)が建てられている。
かりそめの行きかいじとはききしかど いざや志らすに まつ人もなし
味方を探して甲斐路まできたが誰も待ってくれてはいなかった、という悲しい話。
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 松林跡を出て街道に戻り国道20号と合流した後、再び右側の旧街道に入っていくと七里岩の向こうに「雪の八ヶ岳」(左)がキラキラ光っている。
20分ほど歩き広い道路を横断した先に「リサイクルショップ」「右)の看板が。リサイクルショップというより骨董店といった方が相応しい品揃え。ちょっと魅力のある店だなー。
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このあと坂道を上り流川橋を渡ると下教来石の町並み。道なりに歩き突き当たりを左に曲がると国道20号に合流するが この辺りが教来石宿の中心地であったようだ。 |

地名の由来となった石とはどんな石なのだろうか、興味津々。国道20号下教来石信号の先を左に曲がり道なりに坂を上って行くとお墓の先の畑の中に「教来石」 (左)がありました。日本武尊が座ったという石はかなり大きい。飛び乗って座ったという感じだ。上に見える石塔は五体の石仏。ただ、地元の人に聞いてみたが確たる回答は無く「たぶん」ということだったので間違っていたらゴメンナサイ。
国道に戻り100mほど歩くと左側の広場の一角に「明治天皇小休止跡碑」(右)が建てられている。今は広場になっているがかつては本陣の建物が建てられていた場所だ。
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 本陣跡から100m程先の郵便局横を右に入って行く道が旧甲州街道。
数分歩くと「諏訪神社」(左)が一段高いところに見える。 この神社の本殿は天保15年(1844)に再建という事だが本殿を飾る数々の彫刻が素晴らしい。
神社横の「街道から見える眼下の景色」(右)も素晴らしい。街道が高いところなので一面に広がる田園が俯瞰できる(右)。昔の旅人もこの景色を見ながら旅を続けたのだろう。
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この素晴らしい景色を眺めたのは旅人だけではなかった。明治天皇も眼下の田植え風景を特とご覧になったようだ。土手上の石碑は「明治天皇御田植御通覧の跡碑」(左)。
さらに先へ歩くと「御膳水跡」(右)と記されたパネルが。湧水をお飲みになられた天皇が「これは旨い!」とは言わなかっただろうが、「お誉めに与りました」と記されている。 「いと旨し」とでも言ったのだろうか。
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 「いと旨し」の先で国道に合流するが国道の向こう側に「教慶寺地蔵菩薩」(左)が鎮座。 写真では分かりずらいがこの地蔵様は大変柔和なお顔でそれこそ微笑んでいるような。
すぐに右側の旧甲州街道に入り しばらく歩くと左手奥の高台に建てられているのは「山口素堂生誕の地碑」(右)。
刻まれている句はもちろん 目には青葉 山ほとゝぎす はつ松魚 素堂
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 5〜6分歩くと下り坂の先は遥か彼方まで真っ直ぐ続く「旧甲州街道」(左)。
坂を下った右側に関所跡碑があるが、ここは甲斐国の信州口を見張った国境の「山口関所跡」(右)。左側に番所の建物があったが今は蔵1棟を残して更地。傍らに建てられた石碑は「西番所跡碑」。
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 田んぼの中の一本道を歩くと釜無川の手前で国道20号に合流。合流した向こう側のコンビニの駐車場に見上げるように大きな「山口素堂句碑」(左)がある。
目には青葉 山ほとゝぎす 初かつお ここでも素堂の句。
コメント:コンビニはその後閉店しています。
国道20号はすぐ傍の新国界橋を渡って行くが旧甲州街道はコンビニ横の旧道に入っていく。山陰のため先日降った雪が全く解けていない。突き当たりを「右に曲がり国界橋を渡るといよいよ信濃国」(右)。
長かった甲斐路も終わり、この先からは信濃路の旅となる。
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