(42) 蔦木宿 国界橋を渡ると、いよいよ信濃路の旅の始りである |
信濃路に入ると最初の宿場が蔦木宿で江戸からは四十二番目。 本陣一軒、旅籠十五軒、人口五百余人と東海道の宿場に比べれば小さい。
今でも宿場の南北入り口に造られた枡形道が残されており、街道沿いの家々には当時の屋号を記した木札が下げられているなど、江戸時代の
息吹を感じることが出来る旧宿場町である。 |
下蔦木集落の上り坂を歩いていると「標高731m」(左)の標識が。もうそんに登っていたんだ。集落を過ぎると「旧街道は山間」(左)を通って行く。
しばらく歩くと 「応安の古碑」(右) と刻まれた石碑が建てられているが、ここに並んでいるのは10体近くの石仏・石塔。応安といえば南北朝時代、ざっと600年以上前。当時からの石仏が野ざらしのまま健在であるとは驚き。
|
何カ所かで石塔を見たり古代米栽培の田んぼを見たりしながら坂道を下ると、出ました「甲州街道 蔦木宿」(左)と記された案内板が。その先をさらに進むと直進と左に曲がる道に分かれるが、ここが宿場南入口の枡形道。右側に由来が記された「枡形道碑」(右)が建てられているので一読。
枡形道を左に曲がると突き当たりが国道20号。右に曲がると蔦木宿の旧宿場街だが昔の面影がよく残る。
|
本陣跡から数分先右側の小さな公園に「与謝野晶子歌碑」(左)が設置されている。
白じらと並木のもとの石の樋(ひ)が 秋の水吐く蔦木宿 与謝野晶子詠
歌碑の前にあるのは与謝野晶子が詠った「石の樋」(右)。湧水を利用した水飲み場で明治39年(1906)頃造られ昭和27年(1952)頃まで使われていた。「石の樋」になる前の湧水を明治天皇がお飲みになられている。ということは これも御膳水。
|
国道を進むとガソリンスタンドの手前で左に入る道があるが この道が北側の枡形道。入り口に「枡形道碑」(左)が据えられており宿場街はここで終わり。あっという間に通り過ぎてしまった。
国道から左に入った旧街道を二十三夜塔や供養塔などを眺めながら進むと古木が2本。
説明板によると「川除古木」(右)と呼ばれる木で、水害から地域を守るために信玄堤に植えられた木の名残なのだとか。
|
すぐに国道に合流。この先はトラックに付き合っての街道歩き。かれこれ20分ほど歩くと左側の国道の下に見えたのは「平岡一里塚」(左)。土盛りがちょっと小さいが傍らに建てられた石碑には「一里塚」と刻まれ、跡とは刻まれていないので現存なのだろう。
一里塚から遙か彼方の田の中に石碑らしいものが見える。なんだろうか。ちょっと遠いが行ってみるか。説明板に「明治天皇巡幸御野立所」(右)と記されている。時は明治十三年(1880)六月二十三日。
|
国道に戻り蔦木宿方向に少し戻ると「富士見町 机」(左)と記された坂道が右側にあるが、この道が旧甲州街道。机といえばJR横浜線に小机という小さな駅があったなー。
机地区の集落を抜け坂道を下ってくると釜無川支流の立場川に架かる国道20号の「瀬沢大橋」(右)。旧甲州街道は橋を渡って今度は左の道に入り瀬沢集落を通って行く。
|
旧道に入ってしばらく歩くと上り坂の途中に小さな「道標」(左)が。文字が弱々しくなっており読みずらいが「左スワ道 右?道」らしい。 ということで左の道を行くのだが かなりの急坂。
坂を上りきったところが三叉路となっている。ちょっと寄り道を。
右へ曲がり国道20号の地下道を通って向こう側に行くと「瀬沢合戦跡」(右)。天文11年(1542)、信濃の諏訪氏ら四氏連合が武田晴信と戦い手痛い敗戦となった地。
|
街道に戻り橋を渡ると上り坂になるがこの辺りから「唐松林」(左)。「春の芽吹きは新緑が綺麗だろう」などと想像するが足下はカチンカチンに凍った雪道。怖ー。
この先うねうねと曲がった急坂を上って行くのだが結構キツイ。
とちの木集落まで上ると寛政年間(1789〜)に造られたという「とちの木風除林」(右)を見ることができる。防風林として植えられた赤松は樹齢200年にもなり見事な並木だ。
コメント:説明板では「草冠に子」と書いて「とち」と読ませている。
|
緩い坂道を上って行くと「重修一里塚碑」(左)が小山の前に。ここは江戸から48番目となる現存の一里塚。
ここまでずーっと上り坂で合戦跡の見学等も含めかれこれ1時間。なんと「標高950m」(右)と表示されている。ついにこんなに高いところまで来たんだ。
標高表示の傍に「甲州街道コース」(右)と記された道標が建てられているが,こういうのを見ると嬉しいね。
|
もう少し先まで歩くと丁字路に突き当たって旧甲州街道は無くなってしまう。その先は企業の敷地に変身。左に曲がりすぐに敷地にそって右に曲がると「雪原の中に真っ直ぐな道」(左)が遙か彼方まで。
雪原の中の道が終わると原の茶屋集落に入って行く。明和9年(1772)に茶屋が出来たが、 その茶屋跡を見逃してしまった。残念。旧甲州街道に復帰して数分歩くと右側に「富士見公園」(右)があるのでまたまた寄り道を。
|
駐車場の脇から階段を上ると目の前にあったのは「芭蕉句碑」(左)。
眼にかゝる ときや殊更 五月不二 はせを
この地の自然景観に感銘した伊藤左千夫はここに公園を造ることを構想。村人と共同で造り上げたのがこの公園。
園内には「伊藤左千夫歌碑」(右)や斎藤茂吉 他多くの句碑・歌碑も。
寂志左乃極尓堪弓天地丹寄寸留命乎都久都久止思布 左千夫詠
寂しさの極に堪えて天地に寄する命をつくつと思ふ
|
街道に戻り十字路を越えると明治天皇駐蹕之処碑が公民館の前に建てられているが、その先の石碑は「明治天皇御膳水碑」(左)。明治天皇はここでも「いと旨し」と言ったのだろうか。
御膳水碑の少し先に石塔が並んでおり、その一角に真新しい「夫婦道祖神」(右)。この道祖神もあと100年もすると味わい深〜い石仏になることだろう。
|
前の宿場教来石宿へ 次の宿場金沢宿へ 表紙へ戻る
|