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街道松 甲州街道 道中記 街道松
街道地図
(44) 上諏訪宿  真澄に麗人、舞姫に横笛 いやー上戸にはたまりません
上諏訪宿は高島藩諏訪氏の城下町で甲州街道(甲州道中)最後の宿場。温泉の町、諏訪大社上社のある町として知られているが、
銘酒の醸造元が軒を連ねる町でもあるので上戸にはたまらない。

平成19年1月19日
酒室神社を出た後、国道20号を北に歩き中央高速のガード下を通って数分、交差点で道は3方向に分かれるが真ん中の真っ直ぐ行く道が旧甲州街道(甲州道中)

明治天皇御小休所跡碑勝手に撮ってとそっけない柴犬旧街道に入って数分、「明治天皇御小休所跡碑」(左)が建てられているが ここは地元の名主 五味邸跡

丸井伊藤商店の直売所向かい側の味噌製造販売店「丸井伊藤商店の直売所」(右)の前になにやら人だかりが。
客に囲まれた柴犬が、逃げるわけでもなく、愛嬌を振りまくわけでもない。カメラを向けても「勝手に撮って」(右)というポーズ。

少し歩くと観光案内の道標が建てられており 木落し と記されている。右の路地に入り中央線の跨線橋を越えると目の前が木落しの小山。

木落し姥塚古墳跡碑表示が何も無い。通りかかった青年に聞くと この山が「木落し」(左)だという。以外に小さい。と、そのとき 「神様をあまり高いところから落としたら可哀想でしょ」。 うーん、なんと心優しい青年だろうか。この木落しは諏訪大社上社のもので下社より温和しい。

旧街道からちょっと右へ入ったJR中央線茅野駅の駅前に建てられた石碑は「姥塚古墳跡碑」(右)。8世紀末頃の築造と推定される古墳だが残念ながら中央線の工事で取り壊されてしまった。


ここから平成19年2月2日 

諏訪大社上社参道鳥居八幡神社由来碑街道に戻ると左前方に「諏訪大社上社参道鳥居」(左)が見える。参拝していきたいがちょっと遠いので 参拝したつもり 。

国道20号に合流し数分歩くと左側に小さな神社がある。「由来碑」(右)によると鎌倉時代に鎌倉鶴岡八幡宮から分社したのだとか。また高島藩主が江戸参勤の際はここに参拝して出府したという由緒ある神社。由来碑には駕籠置き石が有ると記されているがどうしても見つからない。どうも由来碑の台座石が駕籠置き石のようだ。


鍛冶小路碑塔所小路碑播磨小路碑

街道の所々に建てられた石碑に刻まれた文字は「○○小路」(左)。

居合わせたお婆さんに云われを聞いたところ「あたしも分からないのよ。昔はもっと細い道だったのよ。」という話から始まり「あたし、実は武田信玄とは小豆粒ぐらいの関係が有るのよ」と言う。「えっ、御子孫なのですか」「御子孫だなんて恥ずかしい。あっはは・・・」「でもここは諏訪氏の御城下ですが?」「お嫁に来たのよ。あっはは・・・」 恐れ入りました。


諏訪氏館跡諏訪氏館跡碑塔所小路を入り中央線を越え、坂道を上った先は上原城址。城址は山道を登った2kmほど先だが小路を入って5分ほどのところに建てられた石碑は「諏訪氏館跡碑」(左)。ここは この地を治めてい諏訪氏の館があった場所。

《ちょっと一言》 諏訪氏(諏訪頼重)は武田信玄の姉を妻としていたがその義理の弟の信玄に攻め滅ぼされてしまうことになる。 一方、武田勝頼の母は信玄の側室である諏訪頼重の娘・諏訪御料人であった。


江戸道道標と常夜灯甲州街道・渋沢小路道標街道に戻りしばらく歩くと「甲州街道・渋沢小路」(左)と刻まれた道標が交差点向こう側に建てられている。旧甲州街道はこの交差点を右に曲がり中央線のガード下を通って行く。

道なりに歩き坂を上って行くと右から来た道と合流。合流点に建てられているのは かなり読みずらいが「右江戸道」と刻まれた「道標と常夜灯」(右)。旧甲州街道はこの三叉路を左に行くのだが、ちょっと寄り道を。
  


頼岳寺の杉並木参道芭蕉句碑右へ曲がり数分歩くと寛永8年(1631)に高島藩の初代藩主・諏訪頼水が開基した頼岳寺に到着。

「杉並木の参道」(左)を上ると左側の池の端に句碑・歌碑が多数建てられているが、その中の1基は「芭蕉句碑」(右)。 
  名月や 池を巡りて 終夜(よもすがら) 
    


一里塚跡碑十王堂跡街道に戻り十数分、街道左側の石碑は「一里塚跡碑」(左)。ここは江戸から51里の場所であるので五十一里塚とも呼ばれていた。

この後は坦々とした道を40分近く歩くと国道20号に合流。国道を10分ほど歩くと宮坂酒造の前で斜め右に入る道が旧街道で この辺りから上諏訪宿となる。
その分岐点に石碑が建てられているが、ここは「十王堂跡」(右)。  


足長神社手長神社手長神社の手水鉢の水は源泉掛け流し

ここでちょっと変わった神社を。
上諏訪宿へ来る途中に「足長神社」(左)があり上諏訪宿の終わりに「手長神社」(左)がある。 両神社は夫婦だとも云われているが足長・手長とまるで現代っ子だ。

手長神社の手水鉢の水は、なんと源泉掛け流し


松平忠輝の墓河合曽良の墓旧街道に入ると思わぬ人のお墓が。
数分歩いた先の正願寺に「奥の細道」に同行した「河合曽良の墓」(左)がある。曽良は長崎県・隠岐で病没しているが生まれ故郷の諏訪にひっそりと墓石が建てられていた。

街道に戻った所の右側にある貞松陰には徳川家康の六男「松平忠輝の墓」(右)だ。


お墓巡りで滅入った気持ちを一気に吹き飛ばすために、十王堂跡前まで戻り国道沿いの造り酒屋を探そうではないか。
真澄 横笛 本金 麗人 舞姫
宮坂酒造 伊東酒造 本金(ほんきん)酒造 麗人酒造 舞姫酒造
  茅野方向から歩いてくると最初に目するのが「宮坂酒造」のこもかぶり。 おっ「真澄」ではないか。
  数分先の造り酒屋らしからぬ建物は「横笛」「伊東酒造」。 道路反対側は「本金」「本金(ほんきん)酒造」だ。
  その先交差点向こうに見えるのは、なんと「麗人」「麗人酒造」。おっ、さらにその先には「舞姫」「舞姫酒造」もあるぞ。    いやー頭がクラクラするね。 

吉田の松虫湯跡碑

国道をそのまま真っ直ぐ進み諏訪1丁目交差点まで来ると交差点向こうの八十二銀行前に「虫湯跡碑」(左)が建てられている。この地は江戸初期から蒸湯とも呼ばれた温泉地。

この交差点を右に曲がり次の交差点を左に曲がると旧甲州街道。この先しばらくは道なりに歩くのだが途中に樹形の素晴らしい松があったので一枚。「吉田の松」(右)というそうだ。
コメント:吉田の松の先に片羽一里塚跡碑が設置されました。


和泉式部の墓

しばらく歩くと街道が直角に右へ曲がった先で道は二つに分かれる。左が旧甲州街道であるが右側の坂道を上った先の温泉寺に寄り道を。

温泉寺の裏手にある墓地の上の方に、なんと「和泉式部の墓」(左)があるではないか。何故ここに、などと野暮なことは言うまい。恋多き女性であったので慕う多くの殿方が各地に和泉式部の墓を建立したのだろう。

温泉寺はまた高島藩諏訪氏の菩提寺でもあるが和泉式部の墓のさらにその上に歴代藩主の廟所が設けられている。


街道に戻り右に曲がると(上諏訪方向から来た場合は左になる)、あとは一本道で甲州街道終着地の下諏訪宿。

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