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木下街道  道中記

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@ 行徳宿ぎょうとくじゅ 街道地図

行徳は古くから塩の生産地であったため塩を江戸に運ぶための運搬船が江戸との間を行き来していた。
やがて客や物資も運ぶようになると成田山参詣の旅人に人気となり行徳船と呼ばれる定期航路が定着。
また、銚子で水揚げされ陸路を運ばれた鮮魚が本行徳河岸から再び船に乗せられ日本橋・小網町の
行徳河岸まで運ばれる中継地でもあった。
 コメント:日本橋小網町の河岸を、行徳に向うための河岸ということで 『行徳河岸』 と呼んでいた。

平成25年1月18日

木下街道歩きの前に「押切稲荷神社」(左)に寄り道を。ちょっと変わった神社で由緒書きを読むと御神体が十一面観世音菩薩となっているではないか。まさに神様仏様の神社である。

この先に行徳街道と記された表示があるが ここが木下街道歩きのスタート。行徳街道・成田街道を通って木下街道へ。
表示脇の細い道を入った先が旧江戸川であるが ここに古くから地元漁師の守り神である「湊水神宮」(右)が祀られている。6月末の祭礼には多くの参拝者が集まり身動きできないほどになるという。

街道に戻り数分、街道脇のポケットパーク「ぽっくり蛙」(左)が。「人生は八十過ぎたら元気で百まで」とある。百まで生きたら ぽっくり ということですかな。

ぽっくり蛙の脇を通って1〜2分、墓地の中に寛文5年(1665)に建立された「阿弥陀石像」(右)があるが ここには古くから『おかね塚』の話が語り継がれている。
悲しい話である。吉原の遊女であった おかね は年季が明けると夫婦を誓った船頭に会えることを楽しみにこの地へ来たが船頭はついに現れず悲しみのため憔悴して亡くなったという。これを知った吉原の遊女たちが僅かばかりのお金を出し合って供養の碑を建てたのだった。

街道に戻ると、その先は見事に曲った「枡形道」(左)。向こうから来たバスは角の所で一旦止まり前方を確認しながらゆっくりと曲っていくのであった。
 
枡形道から数分、右奥の「徳蔵寺」(右)は天正3年(1575)に建てられた寺院であるが開創当寺は七堂伽藍を持つ大きな寺で、徳川家康が鷹狩の際にしばしば立ち寄ったという。
徳蔵寺脇の道は家康(権現様)が秀忠とともに鷹狩の際通った道ということでその名も権現道。

街道に戻り次ぎの枡形道まで来ると木製格子のガラス戸が。「藤井畳店」(左)の作業場兼店舗だが外の景色が微妙に歪んで写るところがなんとも懐かしい。

枡形道を曲りきった先の町家は「旧浅子神輿店」(右)。昭和4年(1929)上棟の2階建て店舗兼作業場は国登録有形文化財。屋根をよく見ると軒瓦に「浅」の文字が掘られている。おしゃれだね〜

神輿店のすぐ先を左に入ると、彼方の堤防の上に見えるのは「新河岸常夜灯」(左)。この常夜灯は文化9年(1812)、成田講中の人々が建立したもので かつては船乗り場近くの川岸にあった。

江戸名所図会・行徳船場を見ると当時は堤防が無く川岸近くまで家が並んでいるが船乗り場の左側にこの常夜灯が描かれている。今は「スーパー堤防」(右)ができたためかつての雰囲気は全く無くなってしまったが常夜灯は往時のままだ。

街道に戻るとすぐ先に見えたのは安政5年(1854)に建てられたという「笹屋うどん店跡」(左)。現在は個人のお宅となっているが標柱の表示は笹屋うどん跡
当時は船を待つ人、船から降りた人が腹ごしらえにうどんを食べることが常であったそうで大変な賑わいだったという。

その先左側の古民家は国登録有形文化財の「加藤家住宅」(右)。唐破風造りの玄関がユニークだが塩問屋であった加藤家が明治初期に建てたもので、模様ガラスが使われるなど粋な建物であった。

数分先の2階建て古民家は築130年の「田中邸」(左)。代々行徳の塩田所有者だった塩場師(しょばし)の田中家が明治10年(1887)に建てたも。後世まで残そうと最近も修復が行われている。

田中邸の軒前に据えられているのは「芭蕉句碑」(右)。   月はやし 枯梢は 雨を待ながら  芭蕉 
鹿島の根本寺で詠まれた句。

街道沿いには味わいのある建物が多いが すぐ先の「澤木酒店」(左)もその一つ。昭和初期に建てられた店舗は今も現役。店内の木製商品棚や木製の酒蔵看板が懐かしい。

味わいある建物がもう1棟。大正か昭和初期頃に建てられた石造りの建物は現役の「平川医院」(右)。 大正ロマンを感じる石造りに和風玄関とは、なんとも味がある。

トラックの脇を通ろうと思ったら突然クラクションが。えっと思って振り向いたら、「えっ!犬が運転?」(左)。思わず1枚撮ってしまった。

トラックにビックリしたが その先を右に曲ると「寺町通り」(右)の表示。「行徳1000軒、寺100軒」と言われるくらい寺院の多い町だ。

数ある寺院の中でも徳願寺は別格。慶安元年(1648)に朱印状を賜ったという由緒ある寺院。
だが安政3年(1856)に本堂を焼失してしまったのが残念。幸いに安永4年(1775)に建てられた「仁王門」(左)と鐘楼は焼失を免れた。

その仁王門に鎮座している 「仁王像」(右)は明治初期の廃仏毀釈で葛飾八幡宮の別当寺であった法漸寺から移されたもの。 にらみつける迫力が凄い。

おやっと思ったのが「宮本武蔵供養地蔵」(左)。宮本武蔵が何故ここに。武蔵が 晩年、出家して諸国行脚の途中に当寺に滞在。その時描いた達磨絵が残されているのだとか。

街道に戻り自性院(じしょういん)に寄り道を。ここで見られるのは「勝海舟自筆の碑」(右)。
 よき友の消へしと聞くぞ 我この方心いたむるひとつなりたり
勝海舟邸に奉公に上った娘が海舟に愛されたが亡くなり その死を悼んで自筆の歌を碑に刻んだもの。

行徳街道は参勤交代に使われる街道ではないため本陣や問屋場などは無いが寺百軒 と言われたほど寺院が多い。それに劣らず神社も沢山あるので街道沿いの神社を簡単に紹介しておく。
現在の本殿は寛政4年(1792)の建立と
いうからざっと220年前。 3年に一度の
本祭りは大変な賑わい。
4丁目の鎮守として建立された神社。
ちょっとメタボな狛犬が可愛いらしい。
一歩裏の権現道沿いにある神社だが、
大変ご利益のあるお稲荷様だとか。
見事な銀杏の大木2本に守られた神社
には、境内摂社として、水神・八雲・道祖の
3社が祀られている。

3年に一度の行徳五ケ町大祭は当神社で
神輿の御魂入れを行うのだそうだ。神輿の
揉み方が独特で、神輿揉み保存会まで
あるのだとか。
 京都伏見稲荷大社の分社として
 寛永12年(1635)に創建。
奈良・春日大社の祭神として有名な
天児屋根命(あめのこやねのみこと)が
祭神。 創建は大永7年(1527)。
春日神社の隣に鎮座している。
祭神は面足命(おもだるのみこと)という
変わった名前の神様である。
行徳には胡録神社がもう一社ある。

行徳宿には本陣や問屋場こそ無かったが多数の寺院や神社、歴史ある古民家、そして新行徳河岸の常夜灯など、楽しい街道歩きができる宿場であった。

充実した気持ちでこの先の「江戸川」(右)(旧江戸川放水路)に架かる行徳橋を渡ったのだが橋の上を通り過ぎる風が寒かったー!

街道はこの先30〜40分歩いて成田街道に合流し八幡宿へ。

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