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木下街道  道中記

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B鎌ヶ谷宿かまがやじゅく  街道地図

鎌ヶ谷宿は江戸幕府直轄の広大な小金中野牧(野馬放牧場)の中を通っていた街道の継場(小規模の宿場)
発展したもので、 最盛期には問屋1軒、旅籠7軒と記録されている。
松尾芭蕉の鹿島紀行の中に 
「・・やはた(八幡)と云う里を過れば、かまかいが原と云うひろき野あり」とある。当時 は広大な原野の中を
街道が通っていた。

 平成25年1月16日

八幡宿を出てかれこれ2時間、清長庵という小さなお寺の駐車場端に鎮座しているのは「道標地蔵」(左)。
正徳5年(1715)建立というから300年ほど前。正面に「いんざいみち  かしま道なり」と刻まれ、側面には「かまがい道」と。元々ここにあったものではなく街道沿いにあったものがいつの頃かここに。

その先20分ほど歩くと「旧鎌ヶ谷宿」(右)に到着。

鎌ヶ谷宿は「延命寺」(左)辺りから鎌ヶ谷大仏辺りまでの500mほどという短い区間であった。延命寺は中山法華経寺の末寺で慶長8年(1603)の創建と伝えられている。

ほどなく大きな2階建て古民家が見えるが、ここは明治中頃に建てられたという「旧旅籠丸屋」(右)。鎌ヶ谷宿では唯一宿場時代を感じさせてくれる遺構だ。

 ここから平成25年2月2日

旅籠丸屋のすぐ先を左に入って2〜3分、祠というにはちょっと大きめの「駒形大明神」(左)。
徳川四代将軍家綱の御前で悍馬を見事に乗りこなした清田家三代勝定であったが、帰路、にわかにその馬がたけり狂ったため切り殺してしまった。勝定は小祠を建て冥福を祈ったという。

街道に戻り踏み切りを渡った先の神社に通じる階段を上がると参道脇から「器量よしの猫」(右)がじっとこちらを見ているではないか。思わず1枚。

猫に気を取られてしまったが参道の先の神社は「鎌ヶ谷八幡宮」(左)。由緒書きでは創建年代不詳となっているがウイッキペディアには寛永6年(1629)創建となっている。 神社らしい神社だ。

参道に並ぶ石塔は天保12年(1841)から13年(1842)にかけて建てられた「百庚申」(右)で、青面金剛像を彫った石像10基と文字を彫った石塔90基。百庚申は当時の下総地方の流行だった。

鎌ヶ谷八幡宮のすぐ先の墓地に「鎌ヶ谷大仏」(左)が鎮座。奈良や鎌倉の大仏には遠く及ばないが高さ1.8mの釈迦如来像は安永5年(1776)に鎌ケ谷宿の住人・大国屋文右衛門が祖先の冥福を祈るために建立。

墓地内に「官軍兵士の墓」(右)がある。戊辰戦争では各地で戦闘が行われたが、ここ鎌ヶ谷でも小戦闘があり佐土原藩(薩摩藩の支藩)の兵士2名が戦死。後の明治19年(1886)に千葉県がこの墓石を建立。

宿場を出て5〜6分、三叉路の向こう側に見える石碑は芭蕉の高弟であった「三級亭魚文の句碑」(左)。
  ひとつ家へ 人を吹込む 枯野かな  魚文
この句碑は明和元年(1764)の建立だが側面が道標になっており右側面に刻まれている文字は「木をろし道」。

この先は遠く天武天皇(697〜707)の時代から江戸時代まで軍馬育成のための牧場があった地域。バス停や道路標示に「牧場」(右)という文字が。旧道は句碑の所で三方向に分かれた一番右側の細い道に入って行く。街道時代のままかと思われるような細い道が続くがかつての面影は無い。

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