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児玉往還   道中記

 ①川越から高坂まで  ②高坂から奈良梨まで  ③奈良梨から小前田まで  ④小前田から児玉まで  ⑤児玉から藤岡まで

②高坂から奈良梨まで 街道地図

 平成29年3月8日
児玉往還2回目の旅は高坂宿から武蔵嵐山を経て奈良梨の八和田神社まで。
高坂宿を出たら田圃の中の土道を歩き、都幾川を渡った先からは県道344号を歩き武蔵嵐山へ入って行く。その先は鎌倉街道上道に合流し、志賀、中爪、上横田を通って奈良梨に。
田園風景が広がる道が多く路傍の庚申塔や馬頭観音などの石仏も多くみられるが多少単調な街道歩きであった。

第2回目のスタートは高坂宿のほぼ中央、「高坂郵便局前の交差点」(左)から。
戦国時代、この地の豪族であった高坂氏が高坂館(やかた)を築き その周辺にできた集落が高坂宿であった。 江戸時代には川越・児玉往還の宿継場として整備され大変賑わっていた。

町並みに往時の面影は少ないが、屋敷塀があり、屋敷門があり、白壁の土蔵がある「懐かしい」(右)風景も見られる。

5分ほど歩いたら「高済寺」(左)に寄り道を。
当寺は戦国時代に高坂館があった場所。江戸時代に入ると徳川家康に従って関東入りした加賀爪氏が1万石で高坂藩を立藩しこの地に陣営を構えたが その時の菩提寺が高済寺であった。

本堂裏手の高台に「加賀爪氏累代の墓」(右)がある。長久手、関ヶ原の戦 等に功があり江戸町奉行・寺社奉行などを勤めた加賀爪家であったが直澄の代に領地問題を起し領地没収。

街道に戻り100mほど歩くと「八王子道道標と供養塔道標」(左下)の2本が並んでいる。(以前は右へ入る道の両側に1本づつあった)ここは千人同心街道と児玉往還が左右に分かれる場所。

向こう側の「八王子道道標」(左)は安永10年(1781)の建立で刻まれた道筋は「右 日光 よしみ いわどの 道」「左 ちちぶ ひき いわどの 道」。 手前の「供養塔道標」(右)は嘉永年間(1848~54)に建てられたもので正面に刻まれている文字は「奉納経拝礼供養塔」。右側面に「右 松山熊谷行田  左 小川 八幡山 道」とある。

右へ曲がる道は千人同心街道で日光東照宮に向かっている。その先を左へ曲がる道が児玉往還なのだが、なんと、まもなく廃止となるようで通行できない。残念だね~ 

ここは50mほど先の東松山橋南交差点まで歩き 交差点を渡って50mほど戻り旧道に復帰。

旧道に入ってすぐの右側広場は「蓮台寺跡」(左)。広場に入ると左側に石塔が3基並んでおり奥は墓地となっているが詳しいことは分からない。

街道はその先の細い坂道を下り 東武線の踏切を渡り 県道を横断して田圃の中の道に入って行く。 すぐに目についたのが「石橋供養塔」(右)。文政2年(1819)の建立で道標を兼ねており側面に「右 やきう 左 ち*小かわ 道」。

この先は「田圃の中の土道」(左)。江戸時代からずっと続いているこの道が今も土道とはいいね~  田に水が入り稲が育ち始めれば気持ち良い街道歩きとなりそう。

ほどなく「悪戸の石像物群」(右)の前に出る。安政6年(1859)建立の大山常夜灯の頂部に乗っているのは烏天狗?さすが大山講。その他に地蔵尊や馬頭観音、庚申塔など多数の石仏が。
旧道はこの先から天神河原の渡しへ向かうのだが この道は消滅。もう少し土道の感触を味わいたいので右へ曲がり都幾川の土手道へ。

都幾川の土手下に「馬頭観世音」(左)が祀られている。銘を見ると明治24年(1891)1月とあるが、この辺りを道路が通っていたのだろうか。それとも農耕馬の供養だろうか。
馬頭観世音の先から都幾川の土手道になり、しばらくは土道の感触が味わえる。

県道と関越自動車道の下を潜り抜けると「天神河原の渡し跡」(右)付近。だが渡し跡の痕跡を探すことはできない。

県道下まで戻り、階段を上がって唐子橋を渡り対岸へ。中学校の手前から側道に入り都幾川の土手下道まで戻ると旧道に復帰。 旧道沿いで幾つかの石仏と常夜灯が見られる。
川北公会堂の横に庚申塔や道祖神
など8基の石仏が祀られている。
数分歩くと明治32年(1899)
建立
の大山常夜灯が。
さらに5~6分、県道の手前に
在ったのは馬頭観音。
県道の歩道際に高さ30センチ
もない小さな馬頭観世音が。
旧道と県道の合流点に背の
高い大山常夜灯がある。

県道に合流して4~5分歩くと八幡神社の鳥居があるが その参道奥は「若宮八幡神社」(左)。慶長元年(1596)に古墳の上に社殿を造営し鎌倉の鶴岡八幡宮より神霊を分祀。

神社の下は「若宮八幡古墳」(右)。6世紀後半に造られたもので造られた当時のままの石室が残されているという貴重な古墳。中を覗いて見たが暗くてよく見えない。残念。

街道に戻り かれこれ30分歩いたらちょっと寄り道を。

向かった先は「浄空院」(左)。 応和2年(962)に慈恵大師が法養寺として開いたとされる古刹だが文禄2年(1593) 徳川家譜代の旗本菅沼越後守定吉が開祖となって浄空院と改め諸堂の建立が行われている。
宝暦3年(1753)、建物老朽化のため再建されたが現在の本堂はその時のもの。他の堂は建立年が不明。

本堂の裏手に「菅沼氏一族の墓」(右)がある。並んでいる墓石は菅沼定吉の墓石を中心にして24代定喜まで。

若宮八幡神社から街道に戻ると幾つかの石仏石塔が街道沿いに。
唐子中央公園交差点脇の民家の塀の
切り込み部分にあったのは安永8年
(1779)建立の馬頭観音。
浄空院入口交差点に文化5年(1808)の
千部供養塔が建てられている。
その奥、浄空院参道手前十字路の
馬頭観世音は天保4年(1833)建立。
 白山神社(南)信号のちょっと先、
道路際に道祖神がひっそりと。

浄空院を出てかれこれ40分。武蔵嵐山駅の近くへ来たが ここは菅谷宿があった場所。しかし往時の面影は感じられない。「旧根岸医院」(左)の古風な建物が僅かに時代を感じさせてくれる。

嵐山三叉路の先、県道と別れ左の道を入るとすぐに見えたのは「東昌寺山門」(右)。
山門隣に観音堂があるが元々は徳川秀忠の乳母・正心院の持仏であった千手観音が祀られていた多田堂。現在の御堂は昭和10年(1935)の大火で焼失しその後に再建。

児玉往還旧道は嵐山三叉路から右の細道へ入って行くのだが東武線の手前で消滅。ここは東武線の踏切りを渡っていくことに。踏切りを渡って5分ほど歩いたら右へ入る細道が旧道。
5~6分歩くと再び県道に合流する。

合流したすぐ先、多数の石仏の奥にある建物は「志賀観音堂」(左)。比企西国観音霊場二十八番札所 として大変賑わっていた。境内には多数の石仏が並んでいるが貞享5年(1688)造立という古い石仏や寛保7年(1741)建立の高さ2m超という宝篋印塔など町指定の石仏石塔だけでも11基ほどある。

ほどなく田んぼの向うに「杉山城跡」(右)が見えてくる。松山城主上田氏の家臣、杉山主水の居城と地元では伝えられる戦国時代の典型的な山城。ちょっと遠いので眺めるだけ。

この先、奈良梨までは県道296号を歩くのだが結構多くの石仏が見られるのでまとめて紹介。

民家の庭に雨降山と刻まれた
大山講灯篭が建てられている。
嵐山町と小川町の境界点、街道に面した
裏庭に、馬頭観音、大黒天、庚申塔など
3基の石仏がある。
小川町にに入って4~5分、道路際に
元文5年(1740)と万延元年(1860)の
文字庚申塔が2基。
庚申塔の隣に道標があり、「下小川ヲ経て小川町
約一里」と刻まれている。

県道11号を横断した先にも道路際に石仏が見られる。
県道11号を横断した数分先、安永5年(1776)に
建立された庚申塔が道路際に。
その先、歩道が終わった所の塀の中に
昭和10年(1935)の馬頭観世音がある。
下横田の大黒天は嘉永7年(1854)の建立。 奈良梨と上横田の境界にあった庚申塔は
享保元年(1716)の建立。

奈良梨交差点際の 一の鳥居から真っ直ぐの参道が続いた先の「八和田(やわた)神社」(左)は天文年間(1532~55)に諏訪神社として創建されたであろうとされているが明治期に八和田神社に改称。

境内にある「逆さスギ」(右)と呼ばれる大杉は推定樹齢800年だとか。ところが次のような伝説が。
天正18年(1590)に奈良梨に入った諏訪頼水が所領を定める際に信州諏訪から投げた杉がこの地に逆さに刺さり そのまま根を下ろし成長したと言い伝えられている。

八和田神社の東側に残る土塁と堀跡は発掘調査の結果と周辺の文化財などから「奈良梨陣屋跡」(左)と推定されている。

一の鳥居まで戻ると道路際に宝暦10年(1760)「文字庚申塔」(右)が。

奈良梨交差点のそばに小川町駅と熊谷駅を結ぶバス停があるので今回の旅はここまで。
この先は8kmほど先の男衾駅まで公共交通は無いので注意を。

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