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鮮魚街道  道中記

@布佐河岸から冨塚まで  A冨塚から五香  B五香から納屋河岸

鮮魚街道A 冨塚から五香 街道地図

富塚鳥見神社手前から谷筋に下った鮮魚(なま)街道は再び坂を上って「鮮魚街道常夜灯」(左)の
前を通り佐津間へと向っていく。しかし途中に思わぬ障害物が。自衛隊基地で街道が分断されたため
小一時間掛けて迂回せねばならない。その先は徳川幕府の小金牧の中を通っていた街道を歩くのだが
今は車の往来が多い郊外の幹線道路。五香まではちょっと単調な街道歩きになってしまた。

 平成25年3月8日

前回の街道歩きでは住宅街の中を通り富塚鳥見神社に寄り道したところで終わったので今回は寄り道の手前からスタート。

成田不動道標先の三叉路を右側に入ると ほどなく「矢ノ橋の下り坂」(左)を通って藤ケ谷へ入っていく。
坂を下りきって車止めを越えると用壁の下に「石仏と水神宮」(右)が。用壁工事の際、かろうじて残してくれたようだ。水神宮があるということは川がある?

かつては この辺りに手賀沼に流れ込む川があり橋もあったのだが 今は暗渠となり橋も無い。
その橋を矢ノ橋といい「矢ノ橋伝説」(左)が残されている。戦国時代、ここで激しい戦闘が行われ両軍から射られた矢が積み重なって橋のようになったのだとか。

幻の矢ノ橋を渡ると ここにも「文政13寅年 成田道」と刻まれた「成田不動道標」(右)があった。 
 コメント:文政13年(1830)

道標先の丁字路を左に曲がり1〜2分、右側の細い道の先の階段を上がると「金毘羅神社」(左)と大沼沈山の撰碑がある。説明板によると この辺りは鮮魚街道の中間点であったことから休憩所として大変な賑わいだった。金毘羅神社は幕末の嘉永5年(1852)造立ということだが今は無残な姿に。

街道はその先の坂道を右に上っていくのだが、右に曲がらず真っ直ぐ1〜2分歩くと小さな「薬師堂」(右)がある。その前に樹齢数百年の楓があった・・・・はず、だが無い。地元の人によると平成16年(2004)の台風で倒壊、切られてしまったそうだ。

街道まで戻ると先ほどは見落としたが小さな「馬頭観音」(左)が道端にあるではないか。よく見ると「西 とみづか ふさ 木下 なま?道」と刻まれている。道標でもあったのだ。

坂道を上りきると「鮮魚街道常夜灯」(右)がありました。 江戸時代から続く鮮魚輸送は昼夜兼行で行われており輸送の安全を願って明治12年(1789)に建立されたもの。
金毘羅神社からこの辺りは休憩所として賑わった場所で茶店などがあった。常夜灯横の相馬商店は元茶店だったとか。

常夜灯の前を通って坂を下っていくと金網フェンスと有刺鉄線に阻まれ先へ進む事ができない。この先は「海上自衛隊下総航空基地」(左)。仕方ない、フェンスに沿って基地を半周するか。

しばらく歩くと芝生の草原が。その中に「雑木の小さな林」(右)があり祠が見えたので近づいてみると不動明王が祀られている。殺風景な鉄条網が続くなか、ほっとする風景であった。

小1時間かけて自衛隊基地の反対側へ回り込んだが地元の人の話では近道があるそうだ。(地図に示してあります)

旧道に復帰してしばらく歩くと民家の裏に樹木の生い茂った丘が見えてくるが、ここは「佐津間城址」(左)。入口がちょっと分かりにくいが、三叉路手前の路地を右に入ると突き当たりに説明板が建てられている。
南北朝時代は千葉一族の相馬氏の城であったがその後ははっきりしない。今は荒れた竹薮状態、中に入ることは難しい。

街道に戻り三叉路まで戻ると道端に「馬頭観音」(右)がひっそりと立っている。うっかりすると見落としそうだ。

三叉路を左に入り次ぎの辻道を右に曲った先に鳥居があり小さな祠がある。神社かと思いきや祠の中にあったのは「馬頭観音と道祖神」(左)でした。

その先の三叉路に「弘法大師碑」(右)があり「南無大師遍照金剛」と刻まれているはずが「南無大師遍照金山」と墨が入れられているではないか。余計なことをしたもんだ。
この碑は道標にもなっており側面に刻まれている道筋は「松戸 江戸道」。

東武線の踏切りを越えた先の「川久呉服店」(左)に小金牧で行われた将軍の鹿狩りの様子が大きく描かれている。その中にこれから向う「御立場」の様子が描かれているのでぜひ一見を。

ここから先は平安時代から続く広大な牧場があった場所。徳川時代以降も小金牧として保護されていたが街道はその牧を横切っていたためほぼ直線の道路。今は郊外の幹線道路といった感じだが、やや「単調な景色」(右)の連続。

街道からちょっと左へ入った場所に鎮座しているのは「六実(むつみ)稲荷大明神」(左)。 牧の開墾にあたる村民の心の拠り所として明治4年(1871)に建立されたという。

しばらく歩いた先の街道際の神社は「高お神社」(右)。明治初期から開墾事業が始められた際、雨乞いの神様である出雲大社の龍蛇神を勧請したのが始まり。
 コメント:『お』という漢字はパソコンでは変換されないため 『高お』 とした。

さらに15分ほど歩くと真っ赤なノボリ旗が景気よくはためいている。ついつい立ち寄ってみると「五香(ごこう)稲荷神社」(左)であった。この神社は個人のお宅に祀られていたものを現在地に移したという。

ほどなく街道は新京成電鉄で分断され地下道となってしまうが五香駅までの僅かな区間だけ旧道が残っている。
旧道に入ってすぐの所に「松久」(右)という和菓子店があった。 どらやき がお勧めというが、当店オリジナルだという かりんとう饅頭 がとても美味い。かりんとう でもあり、饅頭でもある。

途切れた街道は駅の自由通路を使って向こうへ行くことができるが寄り道したいので地下道を通っていくことに。

向った先は十数分歩いた五香公園。公園の一番奥に立つのは「御立場(おたつば)跡碑」(左)。
ここは徳川将軍の御鹿狩りが行われた場所で数千人の勢子が獲物の追い出しを行うという大規模なもの。将軍は「御立場」(右)で狩りの様子を上覧したという。

御立場は高さ8〜9mほどの小山に御狩屋が設けられたものであったが昭和18年(1943)、飛行機の離発着に邪魔だという軍の命令で取り壊されてしまった。

さきほど五香・六実という言葉が出てきたがこれは地名で、十三まである。維新後の明治政府は牧の開墾を手がけたが その際、入植順に目出度い村名を付けていったのが
そのまま現在の地名となっている。

ちなみに、その村名とは
初富(はつとみ) 二和(ふたわ)  三咲(みさき)  豊四季(とよしき)  五香(ごこう) 六実(むつみ) 七栄(ななえ) 八街(やちまた)  九美上(くみあげ) 十倉(とくら)

    十余一(とよひと)  十余二(とよふた)  十余三(とよみつ)  


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