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青梅街道 道中記

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青梅宿 前半                           街道地図
八王子城落城によって落人となった下級武士達は青梅周辺で石灰焼成を生業としていたが、ここに目をつけた
徳川幕府は江戸城修築に必要な大量の石灰を青梅から調達。後には全国の城郭や寺院でも使われるようになり
石灰の大供給地として発展。また甲州裏街道の宿場としても賑わっていた。 

近年、街のあちらこちらに昔懐かしい 邦画・洋画 の映画看板が掲げられ、「映画看板の街」としても知られている。

平成27年6月8日

箱根ヶ崎宿を出て新青梅街道と合流した「青梅街道は4車線の広い道」(左)。しばらくは江戸時代の面影少ない街道を。

新町桜株交差点の右手前に「庚申塔道標と馬頭観音道標」(右)が。庚申塔は文化14年(1817)の建立で、「右ハ江戸道」と刻まれている。馬頭観音には「左ハ川越道」と刻まれているそうだが、読みずらい。

すぐそばの小さな石碑は桜株井戸跡碑。新田開拓当時に掘られた井戸だが青梅街道の拡幅で埋められてしまった。その場所に記念碑として建てられたもので、この先にも幾つかある。

数分先の「東禅寺」(左)は元和16年(1616)、新町村を開いた吉野織部之介が建長寺覚海を勧請して開山。
本堂の中に「武叢禅林」と記された扁額が掲げられているが、これは明治4年(1871)に明治政府によって廃宗とされた普化宗・鈴法寺にあったもの。

境内の一角に元禄17年(1704)に掘られた「井戸」(右)が修復・保存されている。水の得にくい武蔵野台地では重要な存在の井戸であった。

江戸時代よりさらに古くに掘られたという井戸が街道から数分入った奥で見られる。
「大井戸」(左)と呼ばれ、すり鉢状に深さ7mまで堀り下げ そこから筒井戸を掘ったもの。説明板によると江戸時代以前に「道行く人馬の飲み水を供給する場所として掘られたと思われる」そうだ。

大井戸の奥に鎮座する 「御嶽神社」(右)は吉野織部之介が新町村開拓完成と同時に大和国金峯山権現を勧請して創建。 元和2年(1616)のことだった。境内には塩竈神社・天神社・水神社も

街道に戻ると交差点の向うにスラリとスタイルの良い常夜灯が。これは「御嶽神社御神灯」(左)。

交差点から数分、右奥の茅葺古民家は「旧吉野家住宅」(右)。新町村を開いた吉野織部之介が住んでいた場所で吉野家は後に代々名主を務めたが この建物は安政2年(1855)に建てられたもの。

前庭の片隅にある井戸は慶長16年(1611)に掘り始めて同18年に完成した「慶長の井戸」(左)。この井戸が掘られたことでこの地域での井戸の開発が進んだという。

吉野家住宅から 数分先、交差点際の小さな公園は明治政府によって廃宗させられた「普化宗・鈴法寺跡」(右)。
元は川越・葦草村にあったが吉野織部之介の寄進により当地に移転。水戸街道・小金宿の一月寺とともに普化宗120寺の根本道場として栄えていた。公園奥に歴代住職の墓石がひっそりと残されている。

かつての青梅街道は野上交差点辺りから右に曲がっていったが今はこの道は一部を残して消滅状態なので近い道を歩く事に。

ちょっと寄り道をと向かった先は師岡会館。入口の門柱脇に文化11年(1814)建立の庚申塔があり薬師堂の横に馬頭観音が3基。それぞれの建立年は文化11年(1814)・文久2年(1862)・明治13年(1880)

東青梅5丁目交差点の先から旧道が復活。旧道を5~6分、三叉路の頂点にあったのは南無阿彌陀佛と刻まれた「追分道標」(左)。道標は「右 江戸道」「左 はんのふ 加王こゑミち(飯能 川越道)」と読める。

追分道標先の六万通りにあったのは花崗岩の井戸桁に井戸車を備えた「つるべ井戸」(左)。 詳しいことは分からないが昭和32年(1957)頃までは現役で使われていた。

その先の御堂は「青梅六万薬師堂」(右)。 天正18年(1596)、師岡城落城後に疫病がはやったことから天寧寺8世正翁長達和尚が法華経六万部を読誦・書写し一宇を建立したと伝えられている。

旧街道はこの先の東青梅駅入口交差点を右折し成木街道入口交差点を越えJR青梅線の踏切を渡っていく。

踏切りを渡った先で路地のような細い道を入り再び踏切りを渡って階段を上ると そこは「乗願寺」(左)。
正安2年(1300)の開山と伝えられているが天正18年(1596)に前田利家らの軍勢によって師岡城とともに焼き討ちにあい焼失。慶長年間(1596~1615)に再建。山の中腹にある静かなよいお寺だ。

街道に戻って数分、再び踏切りを渡って「勝沼神社」(右)へ。正安3年(1301)、勝沼城主三田下総守長綱が創建した神明皇大神宮が前身で 明治5年(1872)に地名と同じ勝沼神社へ改称。

街道に戻らずもう一カ所寄り道を。
青梅線踏切り前の階段を上がったところが室町時代初期の創建と伝わる古刹「宗徳寺」(左)。本堂は天保12年(1841)の再建。山懐に抱かれた静かなお寺です。

宗徳寺脇から階段を上ると山の中腹に質素な「西分神社拝殿」(右)がひっそりと建っている。室町時代初期、別当寺宗徳寺の守護神として勧請された妙見社だが明治初期に地名と同じ西分神社に。

街道に戻って数分、住江町交差点まで来ると青梅宿の新名物「映画看板」(上)がついに現れました。最後の映画看板師といわれる久保板観氏が描く往年の名画看板が
街道沿いに点々と。板観のサインが入った映画看板は洋画・邦画を問わず懐かしいものばかり。


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