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青梅街道 道中記

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青梅宿 後半                           街道地図
石灰の一大供給地として、また甲州裏街道の宿場街としても賑わった青梅宿は明治以降も織物業や林業で
活況を呈していた。
近年、板観(ばんかん)こと久保板観氏が描く昭和レトロの映画看板が街の至る所に掲げられ、街道歩きの目を
楽しませてくれる。一方で江戸時代の息吹もしっかり感じることができる青梅宿であった。

 平成27年6月8日
旧青梅街道の住江町交差点まで来ると さっそく目に飛び込んできたのが昭和レトロたっりの「映画看板」(左)。
何十枚という映画看板が街のあちらこちらに。これら全ては板観こと久保板観氏が描いたもの。左の写真はほんの一部。
 
 こちらをどうぞ。

交差点を渡って数十メートル歩いたら左に下る道に入ると格子戸の古民家が。かつては料亭だった「もりたや食堂」(左)は明治35年(1902)の創業。嵐勘寿郎の鞍馬天狗の看板がなんとも懐かしい。

もりたや食堂の隣は昭和初期に建てられた「津雲邸」(右)。衆院議員を務めた津雲國利氏の自宅として建てられたもので京都の宮大工を招聘して施工した名建築。残念ながら一般公開は週末のみ。

津雲邸前の「延命寺」(左)は応安2年(1369)創建の古刹。境内の端にある可愛らしい五重塔は愛児を亡くした父親が菩提を弔うために昭和9年(1934)に建立したものだという。

延命寺前の下り坂を延命寺横丁と呼ぶそうだが、すぐ先の十字路脇に置かれた石は「石橋供養塔」(右)。
ここを流れていた水路に石橋が架けられたのが安政2年(1855)。そのとき建てられた供養塔の側面に刻まれているのは「安政二乙卯冬十一月吉日」。

十字路先の宗建寺に中里介山の大菩薩峠に義賊として描かれている「裏宿七兵衛の墓」(左)がある。
元文4年(1739)に捕えらた裏宿七兵衛は処刑・さらし首に。ある暴風の夜、その首が沢を流れ宗建寺近くに流れ着いたが哀れに思った住職が手厚く葬ったのだった。

宗建寺にはもう一カ所 都旧跡がある。墓地の中ほどにあったのは江戸時代の国学者で文人の「根岸典則の墓所」(右)。

街道に戻り数十メートル歩くと右手に大きな鳥居が見えるがここは旧青梅村の総鎮守・住吉神社。
応安2年(1369)に摂津国の住吉明神をここに祀ったのが始まり。本殿は正徳6年(1716)の建立、「拝殿」(左)・幣殿は文政7年(1824)から天保6年(1835)頃と推定されているが いずれも江戸時代の建立。

境内左手の石碑は「櫛笥(くしけ)大納言隆望卿女(娘)の歌碑」(右)。
  はるかにも ここにうつして すみよしの かみがきふかき めぐみをぞおもふ

おっとー、そこで逆立ちしているのはバカボンのパパでなはいか。ここは「赤塚不二夫会館」(左)。江戸時代の旅にはちょっと似つかわしくないが寄り道を。青梅と赤塚不二夫の間に縁は無いようだが町興しの一貫として2003年に開館。館内を一周すると元気がみなぎってきたのだ。

隣は「昭和レトロ商品博物館」(右)。昔懐かしい品々が所せましと並んでいる。コちゃんやアーモンドグリコなど現役商品でもここで見ると懐かしくなってくるから不思議だね~

昭和レトロ商品博物館の斜め対面の店先に印袢纏やら、お面やら、小田原提灯やらと祭りだらけの商品が並んでいるが、ここは昭和元年(1926)創業の「祭り用品の力屋」(左)。 なんだか血が騒ぐね~

数軒先の商店横に雪守横丁と記された標柱があったので入って行くと、なんとも言えない良い雰囲気の路地なんだなー。
「雪守横丁」(右)。ネーミングがいいね~。でも云われが分からんのです。

街道に戻って4~5分歩いたら左の坂道を下って室町時代の創建という常保寺へ。なんと、「猫のお地蔵様」(左)が。
傍らの説明板によると「昭和初期、裏宿町の通称どんつく様の境内にあった猫地蔵を、廃寺にともない当地に引き取り安置」。猫地蔵の御利益は何だろうね。

街道に戻ってしばらく歩くと昔懐かしいお米屋さんが。「柳屋米店」(右)は江戸時代から続く老舗。 建物は明治初期の建築だとか。
 

数分先右側の「旧稲葉家住宅」(左)は江戸時代後期の土蔵造り2階建ての店舗建住宅で都の有形民俗文化財。 稲葉家は青梅でも有数の豪商で町年寄りも務めた家柄であった。くぐり戸を入ると目の前に帳場が。江戸時代にタイムスリッだ。その奥の裏庭に面した部屋がなんともレトロ。歪んだガラスを発見したときは子供の頃を思い出したね。

おかざき商店横に「此処に駅ありき」と刻まれた「馬車鉄道駅跡碑」(右)がある。道路反対側に中武馬車鉄道の始発駅があったが、おかざき商店の先代が経営者だった関係からここに石碑を建てたのだとか。

ここで青梅という地名に重要な関係のある金剛寺へ寄り道を。

金剛寺本堂前に青梅という地名の由来となった「梅の老木」(左)がある。平将門がこの地に仏縁を結び「願いが叶うならば大きく育て」と梅の一枝をさしたところ芽吹いたのだとか。やがて大きく育ち梅が実ったが、この梅が黄熟せず秋になっても青かったことから青梅と称せられ これが青梅の地名に。

金剛寺は天保12年(1831)の火災で堂宇の大半を焼失したが唯一残ったのが「表門」(右)。17世紀前半ごろの建立と推定されている。

本堂の右手、植え込みの中にある「金剛寺碑」(左)は安永10年(1781)に建てられたもので金剛寺の沿革と青梅樹の由来が刻まれているそうだが ほとんど読むことはできない。

街道に戻ると「熊野神社」(右)の鳥居が見えるが ここは森下陣屋があった場所。 八王子代官所の出張所とも言える陣屋であったが延享元年(1744)頃に廃止。鳥居の後ろに見える大樹は陣屋が置かれた折りに鎮守として祀られた熊野神社の境内に植えられたシラカシ。

青梅街道は熊野神社脇で右・左と曲がる鍵型道。その先は青梅裏宿だが ここにも中里介山の大菩薩峠に登場する裏宿七兵衛の旧跡があるのでもう少し足を伸ばしてみることに。

鍵型道から7~8分、街道際の「七兵衛公園」(左)は実在した裏宿七兵衛の住居跡。入口の左に多数の石仏が。
伝えによると七兵衛は盗賊で、奪った金品は全て貧しい人々に分け与えた義賊であった。大変な健脚で遥か遠方で盗みを働き朝には帰って畑仕事をしていたため誰も気づかなかったのだとか。

公園の奥に「裏宿七兵衛供養塔と説明碑」(右)が建てられている。説明碑の冒頭に「我が青梅が生んだ熱血の狭児通称裏宿七兵衛は享保の頃より元文年間にかけて困窮せる庶民の救世主であった」とある。

公園の裏を通っている道を「七兵衛通り」(左)と呼ぶが七兵衛さんはよほど地元の人に愛されていたのだろう。 市道に愛称を付けるつけることになった際、裏宿七兵衛を「偲ぶよすが」として命名。ちなみに裏宿は梅園町という風流な町名に変わってしまったが平成に入って裏宿町に戻っている。 中里介山の大菩薩峠の効果ですかな。

七兵衛通りから青梅線を越えて図書館裏に廻ると「七兵衛地蔵堂」(右)がある。木彫りの小さな地蔵尊は昭和7年(1932)に祀られたものだが このお地蔵さんにお参りすると健脚になるのだとか。

青梅街道の旅が終わり 帰りはJR青梅線の青梅駅から。
駅舎が田舎にしては立派だが ちょっとレトロだなーと思ったら、なんと、旧青梅鉄道の本社として大正13年(1924)に建てられた鉄筋コンクリート造り。地下には商店や食堂があり名店街まであったという。

改札を通ってホームへの地下道を歩くと映画看板の極め付け
ホームに上がると、「木造の待合室」(右)が。こだわるな~

青梅街道の旅が終わりました。

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