鶴瀬宿の入り口には関所が設けられており 入り鉄砲に出女を厳しく監視していた ということだが、裏山を通って関所抜けする旅人もいたようで
形式だけの関所だった と記された資料もある。 |
| 今回の旅は甲斐大和駅からなので景徳院を素通りするわけにはいかない。ここ大和村は武田勝頼終焉の地。景徳院には「勝頼・北条夫人(勝頼夫人)・嫡男信勝」の墓がある。 |
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 鶴瀬宿とは反対方向に30分ほど歩くと景徳院に到着。「山門」(左)は天正16年(1588)の建立。この寺は武田勝頼一族の菩提を弔うために徳川家康の命で建立されたもの。
山門の右手、甲将殿の裏に「武田勝頼一族の墓」(右)がある。中央が勝頼の墓で右が北条夫人、左が信勝の墓。すぐ近くの勝頼夫人の歌碑にはなんとも悲しい時世の歌が。
黒髪のみだれたる世ぞはてしなき 思いに消ゆる露の玉の緒
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 景徳院へ行く途中にある2基の石碑は共に古戦場跡碑。田野橋の手前50mほどの所にあるのが「四郎作(しろうつくり)古戦場跡碑」(左)。織田・徳川連合軍と戦うは小宮山内膳ら数名、数十本の矢を受け 立ったまま息絶えたという。
橋の先にある碑が「鳥居畑古戦場跡碑」(右)。天目山を目指した勝頼一行は ここ田野の地で織田軍の先鋒滝川一益軍に捕捉され最後の戦いを行ったが全員討ち死。勝頼、夫人、信勝はここで自刃。
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 悲しい歴史を秘めた景徳院を出て鶴瀬宿へ向かうのだが「笹子峠へ続く山並み」(左)があまりに綺麗だったので1枚。山と山の間を国道20号が通っているが その道も山の中へ消えてゆく。
しばらく歩き国道20号に合流してさらに下り大和橋を渡ると「笹子峠入り口」(右)。 左へ曲がると前回歩いた駒飼宿を通って笹子峠となるが今回は真っ直ぐ進み鶴瀬宿へ。
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 さらに国道20号を数分歩くと旧甲州街道は左の側道を下って行く。立会橋を渡ると「金岡自画地蔵尊碑」(左)と標柱が建てられている。平安時代の宮廷画家 巨勢金岡(こせのかなおか)が岩面に描いた地蔵尊は水にぬれるとお姿が現れたのだとか。水害で流されてしまい今は見られない。
ちょっと先が「鶴瀬関所跡」(右)。鶴瀬の口留番所といわれ 物資の流通と入鉄砲と出女 を厳しく監視していたということだが それなりに 監視していたので関所抜けも多かったとか。
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 旧甲州街道は関所跡の先で国道を横断。そこに立派な石碑があるが「鶴瀬地区」と刻まれており宿場碑とは関係無い。地区ではなく宿だったら味のある石碑だったのになー。となりが「鶴瀬宿標柱」(左)。
国道を横断して40〜50mほど旧道を歩き すぐに国道に合流。この先はずっと国道20号を歩いて行くがどこまでも下り坂が続く。途中の崖上に立っているのは「古跡・鞍懸」(右)と記された標柱。武田軍の猛将 長坂長閑の馬の鞍が桜の木に掛かっていた場所なのだとか。
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 さらに国道を下って行くと「洞門」(左)が見える。旧甲州街道は右側からの山越えであったが今は途中で消滅。ここで歩道が左がに変わるがちょっと寄り道を。
洞門の右の道を登っていくと聖観音堂と記された標柱が立っているが裏に記されているのは「芭蕉の句」(右)。
観音の 甍(いらか)見やりつ 花の雲 芭蕉
この句の甍は浅草寺の観音様の屋根のことだが、観音堂の甍でもいいかな。
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  洞門を抜けた先の信号で右に移り坂を下っていくと石灯篭と標柱が立っているが ここは「武田不動尊跡」(左)。横吹まで上って来た勝頼一行はここで一休み。親切にしてくれた村人に持参の不動尊を託し武運を祈ったのだった。
不動尊跡のちょっと先に「旧甲州街道」(右)と記された標柱があるがこの「横吹(現共和地区)辺り」(右)は往時の面影が残る鄙びた街道だ。
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 横吹集落の中程にある火の見櫓の下に変わった道祖神があった。「球形道祖神」(左)とでも言えばよいのだろうか。台座に 道祖神 と刻まれている。
道祖神の隣に鎮座するのは「六地蔵」(右)。写真では大きさが分かりにくいが横幅約50センチ。可愛らしいんだ、この地蔵様。
この先で再び国道20号に合流して勝沼宿を目指すのだが下り坂がまだまだ続く。
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