| (35) 勝沼宿 山裾に静かにたたずむ薬師堂。見ているだけで心が安らぐ |
勝沼宿は本陣1、脇本陣2であったが旅籠は23軒と賑わった宿場であった。勝沼は武田信虎(信玄の父)の弟次郎五郎信友が居を構え、
在所名そのままに勝沼氏と称して武蔵相模口の守りを固めていた地域である。また勝沼は甲州ぶどう発祥の地としても知られている。 |

国道20号を下ると柏尾橋の手前に「近藤勇 柏尾古戦場」(左)と記された標柱と説明板が建てられているが、ここは明治元年(1868)、近藤勇が率いる幕府軍と板垣退助が率いる官軍の先鋒隊が戦った地。
すぐ隣の植え込みの中に「近藤勇」(右)がすっくと立っている。どういうわけかあまり強そうに見えないんだナー。上石原宿(布田五宿)で見た近藤勇は睨みの効いた渋ーい顔をしていたのだが。
柏尾橋の先がいよいよ勝沼だ。
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橋を渡ると目に入るのが勝沼のシンボル「観光ぶどう棚」(左) 。すでに ぶどうの季節が終わっているのでちょっと殺風景な景色。シーズン中はさぞ賑わったことだろう。
数分歩いた先、大善寺手前の崖際に見える石碑は「芭蕉翁甲斐塚」(右)。
蛤の 生ける甲斐あれ 年の暮れ 芭
この句碑は宝暦12年(1762)建立のもので山梨県内でも最も古い句碑。
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芭蕉翁碑のすぐ先が国宝・重文の宝庫大善寺。駐車場の奥から階段を上ると大きな「山門」(左)が迫ってくる。彫刻をおさえ重厚さを出した山門は寛政10年(1798)に再建されたもの。
山門をくぐり階段を上って行くと山裾に「国宝薬師堂」(右)が静かにたたずんでいる。見ているだけで心が安らぐ。
大善寺はまた甲州ブドウ発祥の地。養老2年(718)、僧行基が修行中にぶどうを持った薬師如来が現れたので、さっそく薬師如来像を彫って大善寺に安置。また里人にぶどうの作り方を伝授したのだとか。
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薬師堂から右手の東参道を下る途中の宝篋印塔は「理慶尼の墓」(左)。叔父の武田信玄に滅ぼされた勝沼信元の妹で、嫁ぎ先から離縁され尼となったという。真新しい花が手向けられているのが一層哀れをさそう。
国道に戻り4〜5分、勝沼大橋の手前左側に建てられた標柱に「御身影岩」(右)とある。 ここは甲州ぶどうの祖、僧行基が修行した岩。
勝沼大橋を渡らず真っ直ぐ数分歩くと緩い下り坂となるがこの坂道を国見坂と言い標柱が建てられている。その標柱に「元和七年(1621)に甲州街道の往還筋の地名として定められた」と記されている。
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さらに数分歩き 勝沼氏館跡駐車場 の表示が見えたら左に入ると茅葺の建物が見えるが、これは勝沼氏館跡に復元された「家臣屋敷」(左)。勝沼氏は武田信虎の実弟であったが嫡男の信元が信玄によって処断され2代で終り。
街道に戻り上行寺の前を通って1〜2分歩くと右側の歩道際に「勝沼宿脇本陣跡」(右)の標柱が建てられている。この辺りが勝沼宿の宿場中心街。
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ちょっと歩くと前方に「勝沼本陣 槍掛けの松」(左)が見える。「本陣に大名、公家などが泊まると槍を立て掛けた松」なのだそうだ。
槍掛けの松 の道路反対側に格子戸の家が数軒。一番端の家は「仲松屋」(右)という江戸時代後期に建てられ明治前期に建て増しされた商家の建物。
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宿場街を歩いていたら少々傷んでいるが「3階建てという珍しい土蔵」(左)が目に入った。勝沼宿では結構多くの土蔵を見るが背が高いだけに存在感たっぷり。
その先でこれまた存在感を発揮している建物が「旧田中銀行社屋」(右)。宿場町に似合わない洋風の建物は郵便局の電信局舎として明治30年(1897)に建てられ、その後銀行の社屋となっていた。
笹子峠からずっと続いている下り坂は この辺りで多少緩くなるがまだまだ下っている。
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再び強い下り坂。勝沼小学校入り口の標柱に「ようあん坂」(左)と記されているが近くに天野養庵の家が有ったから「ようあん坂」。隣に立つ石碑に刻まれている海抜は400m。
笹子峠の標高が1096mだったので700mも下って来たのだが下り坂はまだ続く。
ここにも有りました「球形道祖神」(右)。山梨と周辺地域の丸石信仰が道祖神にまで発展したのではないかと。
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