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(17)宇都宮宿前半 街道地図
世の中に異変が起こりそうだと汗をかく阿弥陀様がいるそうだ

宇都宮宿は日光街道17番目の宿場であるが二荒山神社の門前町としても賑わっており日光街道最大規模の宿場であった。
宇都宮という地名は下野国一の宮二荒山神社の「一の宮」から転訛したとも、神社の別称「宇津宮神社」からとも云われている。


 平成19年4月10日

JR日光線不動堂不動明王

国道4号を北上すると西原町で国道は大きく右へ曲がるが旧日光街道は直進。数分歩くと道路の下を「JR日光線」(左)が横切る。これがなんとも素朴でいい雰囲気なんだなー。   

さらに5分ほど歩くと不動前交差点の向こうにお不動様を祀った「不動堂」(右)が見える。中を覗くと憤怒の形相の「不動明王」(右)に睨み返されてしまった。でも本当は慈悲のお顔なんですね。


蒲生君平勅旌(ちょくせい)碑樹齢800年の欅

東武線のガードを潜ると「蒲生君平勅旌(ちょくせい)碑」(左)と蒲生君平里と刻まれた石碑が建てられているが、明治天皇から「人となりはまことに立派」とお誉めの言葉を賜った人物。宇都宮の人は蒲生君平をよほど誇りに思っているようで、この後いたる所で君平君、いや君平さんに会うことに。

数分歩くと彼方に巨大な木がそびえている。是非間近で見みなければ。住宅地奥の巨木は「樹齢800年の欅」(右)。 樹高はなんと43mだという。 
コメント:欅は切り倒されてしまいました。


子安地蔵堂熱木(ねぎ)不動尊

街道に戻り数分歩いて台陽寺の参道に入ると「子安地蔵尊」(左)が鎮座。宇都宮城主戸田氏の守り地蔵尊だったが幾多の変遷をへてこの地に安置。

「熱木(ねぎ)不動尊」(右)を探したがどうしても見つからない。 若いお巡りさんが来たので聞いたら「分かりません、この近くなら一緒に探しましょう」と親切なこと。結局分からずお巡りさんと一緒に近くにあったガソリンスタンドへ。「その交差点の向こう3軒目だよ」なんだ、交差点向こうか。お巡りさんご足労かけてご免なさい。


歌橋町跡一向寺

熱木不動尊の数分先が「歌橋町跡」(左)で説明板が建てられている。この辺りに住んでいた人の歌が万葉集に載ったのだとか。でもどんな歌かは説明が無い。古くは宇田橋町と書かれたようだ。

歌橋町跡からさらに数分、左側の奥は「一向寺」(右)。この寺院の「汗かき阿弥陀」は国指定の重要文化財。日曜日には拝観可能。この阿弥陀様は世の中に異変が起こりそうになると汗をかくのだという。能登半島地震のときは大汗だったかも。


報恩寺の茅葺き山門薩藩戦死者墓

一向寺を出たらちょっと寄り道を。
数分歩いた先に見えたのは「報恩寺の茅葺き山門」(左)。開山は寛永16年(1639)だが本堂は戊辰戦争で焼失しその後再建されたが山門は当時のまま。

山門を入ると見られるのは戊辰戦争の一つ、宇都宮城争奪戦で戦死した兵士を弔う「薩藩戦死者墓」(右)や長州大垣諸藩の戦死烈士之墓


戊辰之役戦士の墓六道辻の古民家

報恩寺の塀に沿ってさらに先へ行くと六道の辻と言われる変則交差点があるがここは宇都宮城奪還を目指す新政府軍と旧幕軍が激しい戦いをおこなった場所。

その辻の手前に「戊辰之役戦士の墓」(左)があり墓碑には今でも花が手向けられている。
六道の辻にはどういわけか古民家とは言わないが懐かしい民家が数軒並んでおり写真に撮りたくなるような景色だ。


材木町通り材木町道標

街道に戻り「材木町通り」(左)に入ると道は区画整理されて広ーくなっている。こざっぱりとした町並みだが、その分、昔の面影は感じられない。この道は突き当たりが丁字路となるが そこを右に曲がるといよいよ宇都宮宿の中心街へと入って行く。

ところで、東海道や甲州街道を一緒に歩いたことがあるU氏から「最近の文章は30分も歩く、とか、黙々と歩くと、などと愚痴が多いぞ」とおしかりを受けてしまった。 いやはやごもっともで。これからは愚痴は厳禁だ。過去の文章も少々手直しを。

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