期待した静桜(しずかざくら)はまだ固い蕾だった、残念 |
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宇都宮宿は宇都宮城の城下町、二荒山神社の門前町として発展し 日光街道と奥州街道の追分けの宿場としても大変賑わっていた。
本陣2軒・脇本陣1軒、旅籠は42軒であったが、戸数は1200余、人口は6000人を越えていたといわれるほどの賑いだった。 |
平成19年4月10日

日光街道は広ーく 区画整理された「材木町通り」(左)を進み突き当たりの丁字路を渡って右に曲がって行くのだが またまた寄り道がしたくなった。
交差点を渡らずに右へ曲がり100メートルほど歩くと「本陣跡」(右)の表示板が建てられているが、この辺りが日光街道と奥州街道の追分け。右写真の右へ行く道が奥州街道で向こうへ行く道が日光街道。
ここでは日光街道に入らずもう少し先まで歩くことに。
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日光街道に入らないということは奥州街道を歩くことになるが宇都宮宿では実に丁寧に昔の町名であるとか遺跡を表示している。
「池上町」(左)という表示があったが、その先右に入ったところに「鼠穴」(左)という表示が。鼠穴とはおかしな町名だが、かつて、ここから伝馬町にぬける細い道が鼠の穴のように見えたので鼠穴。大胆なネーミングだねー。
ところで ほんの気持ち を一つ。「わかやま」という和菓子店で売られている「ほんの気持ち」(右)という一口羊羹が旨い。栗だけで作ったという羊羹は皇太子殿下(現・上皇様)もお買いになられたというが、ほんのり甘く上品な味がたまらない。
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さらに先へ進むと左側に鳥居が見えるが、ここは「下野国一の宮二荒山神社」(左)。宇都宮の地名の由来にもなった神社で、地元では 二荒さん と呼ばれ親しまれている。
源頼朝や徳川家康はじめ多くの武将が戦勝祈願しているが日光の二荒山神社とは関係無い。
境内左手の階段を降りると「宰鳥(蕪村)句碑」(右)がある。
鶏は羽に はつねをうつの 宮柱 宰鳥
この句までは蕪村ではなく宰鳥という号を使用していた。
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「追分け表示」(左)が建てられている場所まで戻り、再び日光街道の旅に。左写真の左に行く道が日光街道、右側の道が奥州街道。
追分けを左に曲がると大谷石の塀と漆喰の蔵があり、そのとなりが「古民家」(右)。この辺りに上野家本陣があったのだが古民家には「株式会社上野」という表示がされている。上野本陣と関係あるのだろうか。
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数分歩いて県庁方向の 亀の甲坂 を下りすぐに右へ曲がると「延命院」(左)。ここは蒲生君平が修学した寺。
地蔵堂は共保年間(1716〜36)の建築だが鎮座している地蔵菩薩は室町時代の作という。
この後、蒲生君平の墓があるという桂林寺にも立ち寄ってみた。
次に目指すは国立栃木病院の前庭にある 「宝の木」(右) 。樹齢450年以上の「この手柏」、いつの頃からか宝の木と呼ばれるようになったのだそうだ。我が家にも宝の木が欲しいよ〜。
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旧日光街道である国道119号を進み上戸祭町交差点を過ぎると「桜並木」(左)となるが、ここの桜並木は凄い。大木であるので桜のトンネル。見応え充分。
しばらく歩くと歩道が車道より一段高くなり街路樹が檜と桜の混植に変わっていく。
ほどなく柵で囲われた中に「一里塚」と刻まれた石碑が立っているが、ここは「上戸祭一里塚」(右)。この一里塚は修復されてはいるが当時のもので左右現存という貴重な遺構。
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並木道も終わり変哲もない街道を歩いていると左奥に見えた「光明寺山門」(左)、どこかで見たような・・・・
思い出した、竜宮城だ。
光明寺の反対側の路地を入り右に左にと曲がりながら向かった先は静御前が挿した桜が生長したという「静桜」(右)。やっとたどりついたお宅で、奥様が「この木ですよ」と教えてくれた桜だが咲くのは5月初旬だという。奥様の話によると1本の枝に「八重と一重」の2種類の花が咲くのだそうだ。
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一週間後に訪れた「日光街道桜並木」(左)であるが満開は過ぎているものの、まだまだ見応え充分。しばらくは桜を楽しみながらの街道歩きとなった。
かれこれ40〜50分歩いただろうか、東北自動車道の高架が見える手前の柵の中は「高谷(こうや)林一里塚」(右)。 この一里塚も一部修復されてはいるが左右とも現存。
一里塚先の高速道路下を通ると江戸から18番目の宿場である徳次郎(とくじら)宿へと入って行く。
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