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街道杉奥州街道 道中記街道杉

B氏家宿後半 街道地図
奥州街道・会津中街道・原方街道が集まり、且つ、鬼怒川舟運の北限である阿久津河岸が近い氏家宿は、物資の集散地として賑わう
交通の要所であった。しかし明治に入り鉄道が開通すると物資集散の役目が終わり、かつての賑わいが急速に失せてしまった。

平成19年9月26日
氏家宿前半で紹介した「さくら市ミュージアム」に「氏家宿の街道風景模型」(左下)や、氏家宿に係わる様々な資料が展示されているので街道歩きの途中、休憩がてらの見学にお勧め。

氏家宿の街道風景模型川原石塔婆さくら市ミュージアム・勝山城址を出た後、国道4号を横断し東北線の旧奥州街道踏切を渡り、道標のある丁字路を左折すると氏家宿の宿場街に入っていく。

左折して100mほど歩き右側の路地を入ると「川原石塔婆」(右)が見られる。
川原石塔婆ここの石塔婆は板碑ではなく川原の石に梵字が刻まれているという素朴なもの。

氏家宿本陣跡西導寺本堂街道に戻り先へ歩を進めるが、ごく普通の町並みが続いておりかつて宿場であったという面影はあまり感じられない。

氏家交差点向こう左側の歯科医院の辺りが「氏家宿本陣」(左)があった場所であるが、ここも写真のとおり。

数分歩き、左の路地を入ると突き当たりが西導寺
勝山城を築き氏家を名乗った宇都宮公頼が建久2年(1191)に建立した寺院で「本堂」(右)は天明4年(1784)に完成したものである。
 

光明寺不動明王西導寺裏の つた地蔵西導寺から一旦外に出て寺院の裏に回ると「つた地蔵」(左)が見られる。蓮座まで一体に彫った地蔵菩薩であるが不思議なことに、どこに置いても一晩のうちに元の場所に戻ってしまうのだそうだ。

街道右側に光明寺という寺院があるが山門を入ると正面の「不動明王」(右)がにらみを利かせている。宝暦9年(1759)に鋳造された像であるが、その時の木型が「さくらし市ミュージアム」に展示されている。

奥州街道と会津中街道の分岐点御前城跡光明寺先の上町交差点が「奥州街道と会津中街道の分岐点」(左)で、奥州街道はここを右に曲がってゆく。

ちょっと寄り道したいので真っ直ぐ会津中街道に入り1〜2分、三叉路を左に。

左に入って数分先の氏家小学校に寄り道を。校庭の右奥で「御前城跡」(右)を見ることができる。鎌倉時代初期の築城ということだが今は土塁の一部が残っているのみである。

今宮神社楼門仙禽酒造小学校を出て少し歩くと、 おっ、薦被りと杉玉だ。
ここは「仙禽酒造」(左)。文化3年(1806)創業ということだが、仙人に鶴(禽)とは優雅な。

さらに先へ歩くと、鳥居の向こうに「今宮神社楼門」(右)が見える。

一見山門のようなこの楼門は寛文9年(1669)、本殿は寛文3年(1663)に造営され、共に300年以上の歴史をもつ建物である。ちなみに神社は平安時代の創立というから1000年以上の歴史がある。

上町交差点まで戻り左に曲がって奥州街道に復帰。(宇都宮方向から来た場合は右折)

ここから10月12日
上町交差点を曲がると、すぐに五行川に架かる「五行橋」(左下)を渡るが、50mほど先の橋は「思案橋」(右下)。

思案橋五行橋思案橋といえば長崎、 のはずが、何故ここに?  地元の人に聞いても誰もが「分かりません」。 やっと 「こんな話を聞いたことがあるが真偽は分からんよ」 と教えてもらった思案橋の由来。

新しく架けたこちらの橋も五行川に架かる橋だが五行橋はすでにある。それではこの橋の名前をなんと付けようか。そこが思案のしどころだな。ならば「思案橋」にしてしまえ。ということで「思案橋」となったようだが。 真偽は分からんよ。

コメント:ここは五行川が平行して2本流れている。

瀧澤家長屋門二十三夜塔と二十六夜塔思案橋から5〜6分歩くと見事な屋敷塀の先にかなり大きな「長屋門」(左)が見える。 紡績などで財を成した瀧澤家が明治天皇の休息所として新築したもので奥には文化財の「鐵竹堂・蔵座敷」などもある。

しばらく歩くと、「二十三夜塔と二十六夜塔」(右)が並んでいる。
日光街道では十九夜塔をよく見かけたが二十三夜塔は久しぶり。二十六夜塔は小金井宿の慈眼寺で見た以来である。

坦々と続く奥州街道サフラン狭間田一里塚この先は「坦々と続く奥州街道」(左)であるが、花を眺めたり、石塔を見たり、大谷石の蔵の彫り物を眺めたり、と飽きない程度の街道歩きが続く。

30分ほど歩いただろうか、松山交差点のちょっと手前、右側の民家の庭に「狭間田一里塚」(右)がある。

どのような経緯で民家の敷地内となったか不明だが、潰さず保存してくれているとは嬉しいじゃないですか。

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