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街道杉奥州街道 道中記街道杉

C喜連川宿 街道地図
アスファルトが敷いてなければ、まさに「江戸時代の奥州街道」そんな道もありました
喜連川宿は足利将軍家の末裔である喜連川家の城下町で、わずか5000石の外様小藩であったが明治維新まで13代続いている。
街道筋には往時の面影は少ないが一歩裏道に入るとしっとりした城下町のたたずまいを感じることができる

 平成19年10月12日

明治時代の水準点奥州街道は直進坦々と続く奥州街道を淡々と歩いていると「大黒様が、えっ水準点?」(左) 奇妙な取り合わせだが、いったい何故。
傍らの説明書きによると、

明治9年にスタートした高低測量で、水準記号を刻む不朽物はないかと見回したら石の大黒様があったので、ここに刻んでしまった」のだそうだ。ずいぶん手抜きしたものですねー。

この先で国道293号は右に曲がって行くが、「奥州街道は直進」(右)して山の中へと入って行く。

奥州街道と記された標識石塔弥五郎坂国道から分かれ旧奥州街道に入ると早速「勝善神」があったり道端にさりげなく「石塔」(左)が立っていたりと楽しませてくれる。

この先の上り坂は早乙女坂と呼ばれる古道だが通称「弥五郎坂」(右)と呼ばれている奥州街道である。

どうということないのだが「奥州街道と記された標識」(右)があるとなんとなく嬉しいね。

坂の途中に 早乙女坂古戦場跡 がある。天文18年(1549)、下野一円の領国経営を目指す宇都宮氏と那須・喜連川連合軍との戦が行われ宇都宮軍の大将尚綱が鮎ケ瀬弥五郎の矢に打たれた地。
以来、早乙女坂が弥五郎坂と呼ばれるようになったのだとか。

アケビ弥五郎殿古戦場跡に「弥五郎殿」(左)と呼ばれる祠が建てられており中に五輪塔が安置されている。 五輪塔は弥五郎が尚綱供養のために建立したと云われている。

コメント:異説として、弥五郎は尚綱の家臣で、尚綱が打たれたことを知った弥五郎は、さらに敵深く切り込み行方不明に。後年、尚綱の子孫が弥五郎の供養に建立したとも云われている。

 弥五郎坂の途中で思わぬ物を発見。道端の茂みの中に、「アケビ」(右)がありました。

奥州街道表示今は使われない奥州街道奥州街道入口 峠を過ぎるとまた「奥州街道」(左)の表示が。 しかし「奥州街道入口」(右)は草ぼうぼう。

入るにはかなり勇気が必要だが入ったらすぐに 「アスファルト道」(右) となり胸を撫で下ろした次第である。

コメント:写真の奥州街道は、今は車の通行が禁止されている。アスファルトが敷いてなければ往時の雰囲気がたっぷり味わえる500〜600mほどの道である。

ほほえみ仏河東碧梧桐句碑7〜8分歩くと先ほど分かれた車道と合流。
このまま先へ行かず車道を先ほど分かれた場所に向かって5分ほど戻ると「河東碧梧桐句碑」(左)が見られる。
     阪を下りて 左右に藪あ里(り) 栗おつる

句碑のそばに、可愛らしい「ほほえみ仏」(右)が4体。
これがなんとも色っぽいんだ。こんなに色っぽい仏様だと手を合わす前に見入ってしまいそう。

勝善神寛延元年(1748)建立の道標街道に戻り真っ直ぐな道を進むと荒川の土手に突き当たるがその手前に「勝善神」(左)の石碑がいくつも建てられた場所がある。もしかすると、馬の神様(勝善神)の寄り合いかもね。

荒川の土手に沿って右に曲がり連城橋まで来ると寛延元年(1748)建立だという「道標」(右)が建てられている。 刻まれている文字は「右江戸道 左下妻道」。 下妻道とは、日光街道千住宿で日光街道と分かれ、水戸街道と日光・奥州街道の間を通って北上し、喜連川で奥州街道に合流する下妻街道のこと。いつか歩きたい街道だ。

寒竹囲い御用堀連城橋を渡るといよいよ喜連川宿であるが、さっそく寄り道を。

橋を渡って100mほど歩いたら左に入ると数分先に「寒竹囲い」(左)の家が数軒ある。喜連川城の城主であった茂氏公が勧めたという笹竹垣であるが、生け垣はいいですねー。

そのちょっと先を右に入り1〜2分。「御用堀」(右)と武家屋敷跡が見られる。説明書きに縷々記されているが読むよりしっとりした町並みを味わったほうがよさそうだ。

喜連川神社の若山牧水歌碑喜連川神社御用堀の先に喜連川神社の裏参道がある。

奥へ入って行くと、なんと「若山牧水歌碑」(左)があるではないか。牧水は地元の歌人高塩背山と親交があり、3度ほど喜連川を訪れている。 隣りの小さな歌碑は高塩背山のもの。
 時をおき 老樹の雫おつるごと しずけき酒は朝にこそあれ  牧水

階段を上がると「喜連川神社」(右)の社殿がひっそりと建っている。

喜連川城大手門(復元)足利家歴代墓所街道に戻り右側路地を入ると足利尊氏が創立し後に龍光院と改称した寺院がある。この寺院の「足利家歴代墓所」(左)には喜連川藩2代藩主頼氏の父頼純以降14代の墳墓がある。

街道に戻って今度は100mほど先を左に入って行く。

道の先は喜連川庁舎であるが入口の門は「喜連川城大手門」(右)を再現したもの。2代藩主頼氏は現庁舎辺りに館を建てたが残念ながら明治9年(1876)に焼失。大手門だけが平成3年に再現されたのである。

250年以上の歴史がある呉服店笹屋喜連川宿本陣跡再び街道に戻ると、ちょっと先右側に「街の駅本陣」と看板が出ているがここが「喜連川本陣跡」(左)で明治以降は警察・郵便局・銀行など幾多の変遷を経て今に至っている。

写真の建物は大正15年(1926)に建てられた喜連川警察署の建物だそうだ。

本陣跡の数分先、右側に黒く塗られた歴史の有りそうな土蔵が見えるが、ここは250年以上の歴史があるという呉服店「笹屋」(右)。その少し手前の「紙屋」という和菓子店も創業100年以上だとか。
 

引安2年鋳造の「鉄造阿弥陀如来が安置された御堂高塩薬局の黒板塀と屋敷門さらに数分歩くと「高塩薬局の黒板塀と屋敷門」(左)が見られる。このような景色が何箇所かで見られると「旧街道を歩いているな」そんな雰囲気に浸れるのだ。

台町の追分まで来たら左に曲がり専念寺に寄り道を。

本堂左の「御堂」(右)に鎌倉時代の引安2年(1283)に鋳造されたという「鉄造の阿弥陀如来」が安置されているのだそうだ。残念ながら扉が固く閉ざされ見ることは叶わない。

古ーい道標石塔台町の追分交差点向こうの集会所庭に古ーい「道標」(左)がある。「右奥州海道 左在郷道」と刻まれているが「海道」が使われているのでかなり歴史のある道標なのだろう。

道標の下を右に曲がり坂を下って行くと小さな橋の下にいくつもの「石塔」(右)が。回り込んで見ると二十三夜塔や馬頭観音である。その昔はここが道路だったのかもしれない。

ここから平成19年10月18日

金竜橋突き抜け井戸石塔群の先は内川で、「金竜橋」(左)を渡るとのどかな田園風景が続いている。と思いきやまだまだ家並みが続いており珍しいものを見ることができる。

民家の庭奥に三段の流水桶が見えるが何んだろうか。
近所の親切な方が案内してくれた。「突き抜け井戸」(右)と呼ばれ地下水が自噴している井戸だそうだ。

上段の桶でトマトやスイカを冷やし、中段で食器などを洗い、下段で足を洗うという。スイカを冷やすとは羨ましい。 

つるが坂 つるが坂 田園の中の1本道 田園の中の1本道 稲刈りの終わった田圃
この先から「つるが坂」の長ーい坂をてくてくと上り、田園の中の1本道を進み、山裾を歩き、稲刈りの終わった田圃を眺め、佐久山宿まで約9km2時間少々の旅であるが、
景色が良いので飽きることの無い街道歩きができる。

馬頭観音夫婦道祖神つるが坂を上っていると崖の中腹に石塔群が見えるがその中の一つに狐の顔が刻まれている。 えっ狐?珍しい・・・近づいてよく見たらお馬さんの顔だったんです。「馬頭観音」(左)でした。

下河戸集落に入ると幼稚園から子供達の歓声が聞こえるではないか。なんとなく心が和むから不思議なことだ。

下河戸の信号を右折して50mほど歩くと「天皇御小休之際御膳水」と刻まれた石碑が建てられており、その横の大きな石に刻まれているのは「夫婦道祖神」(右)。これも心が和みますねー。

喜連川宿を出てかれこれ1時間以上、まだ「喜連川」という文字が出てくる。

明治天皇御休輦之處碑引田一里塚喜連川幼稚園のちょっと先の公園奥に「明治天皇御休輦之處碑」(左)が建てられている。公園の奥なのでちょっと見落としそう。

その先の集落に一里塚があるはずだが探してもみ見つからない。年配の女性に尋ねたところ「せきぞう」の横だという。石像・石像、石像が見つからない。ひょっとして石蔵のこと? 奥に小山が見える。

この一里塚は民家の庭にある為か表示は何も無い。前後の関係から「引田一里塚」(右)と思われる。

 一里塚の先でやっと「大田原市」の標識が。次は「佐久山宿」だ。


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