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| 「甲州屋」という、ちょっと気になる屋号の旅館がありました。 |
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天文14年(1545)、大田原資清が大田原城を築いたときは16戸という寒村であったが、しだいに商工業者が集まり、ついには旅籠が
40数軒という大きな宿場に発展。大田原藩は中世以来の所領を幕末まで守り通した数少ない大名家であった。 |
 佐久山宿を出て那須野ケ原の中の真っ直ぐな街道をテクテクと1時間半。神明町交差点の少し手前右側にある「大田原宿 新田木戸跡碑」(左)を見たときはほっとした。
神明町交差点を左に曲がると日光北街道であるが奥州街道はここを右に曲がって行く。数分歩くと、「薬師堂前の道標」(右)に「蒲慮(ほろ)碑・町初(まちはじめ)碑 3、6km」とある。町初碑からの直線道路が長かったなー。 |
 道標脇の鳥居をくぐるとその奥は「薬師堂」(左)。寛永年間(1624~1644)に大田原政清がここに薬師堂を建立したが大田原宿の大火で焼失。現在の堂は寛政5年(1793)に再建されたもの。
境内右手の「七重塔」(右)は貞享元年(1684)と言うからざっと300年前の建立。 対面には元禄7年(1694)建立という舎利塔もある。それぞれにひっそりと佇んでいるが江戸以来の歴史が伝わるような石塔である。 |
 薬師堂の少し先に「甲州屋」(左)という屋号がちょっと気になる旅館がある。旅館の若旦那に聞いてみたところ「うーん、実は分からないのですよ。私で5代目ですが初代が屋号ごと引き受けたものですから」
甲州屋の脇に「大田原宿 下町」と刻まれた石碑が建てられている。
その少し先右側が「本陣・問屋・高札場跡」(右)。本陣は奥州道中最大の大きさで、建坪がなんと381坪(1260㎡)もあったというからビックリだ。また問屋場業務を本陣が兼ねており人足25人、馬25疋が置かれていた.。本陣の脇には高札場があったことなども説明板に記されている。 |
 本陣跡から数分先の左側に「那須与一」(左)がすっくと立っている。台座に刻まれた文字は「幸矢の与一」。 扇の的を見事に射抜いたのは文治元年(1185)2月であった。
与一像から数分歩くと交差点際に「金燈籠(かなとうろう)」(右)が建てられている。初代は文政2年(1819)に建立されたのだが現在の金燈籠は昭和54年(1979)建立の3代目。戦争が無ければ初代の金燈籠が見られたのに、残念なことだ。 |
  金燈籠交差点の次の信号を左に曲がると100mほど先に「大田原宿 寺町」(左)と刻まれた石碑が建てられているが、ここを右に曲がる道が「旧奥州街道」(左)。この辺りは旧街道そんな雰囲気を少しだけ感じることができる。
街道から脇に入った先の光真寺に「太田原氏墓所」(右)があり13代資清公から28代勝清公までが埋葬されている。
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 街道に戻り少し先の左側階段を上がると常夜灯が並んだ先に「大田原神社」(左)が見える。神社御由緒には大同2年(807)の創建と記されている。大同2年は平安時代の初期、長い歴史を持つ神社だ。、
神社の階段を降り街道をぼちぼち歩いていると先ほど分かれた県道に合流。その手前左に「大久保木戸跡碑」(右)が建てられており、ここまでが大田原宿内ということになる。
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 奥州街道は木戸跡碑の先で左に曲がって行くのだが大田原城跡に寄り道を。県道を横切って坂を上ると頂上が「大田原城本丸跡」(左)。天文14年(1545)、大田原資清によって築城され明治4年(1872)の廃藩置県まで太田原氏の居城であった。
城跡を出て坂道を下ってくると柴犬がさかんに尻尾を振ってこちらを見ているではないか。「可愛いねー」(右)。
奥州街道はこの先の「蛇尾(さび)川」に架かる「蛇尾橋」を渡って行く。 |
 蛇尾橋を渡って左に曲がりしばらく歩くとその先は「彼方まで真っ直ぐな道」(左)。歩いても歩いても真っ直ぐ。どこまで続くのやら。
セブンイレブンの大きな看板が見えると足取りが軽くなった。何故なら、ここで奥州街道の中では数少ない現存する一里塚、「中田原一里塚」(右)が見られるからである。塚上に植えられた樹は無くなっているが、まさに「一里塚」。撤去されなくてよかったー。 |
 一里塚から15分ほど歩くと棚倉の道標と言われている「追分道標」(左)がある。道標の後ろに「黒羽刑務所 お気軽にお寄りください」と書かれた大きな看板が。でもなー、刑務所に気軽にと言われてもなー。その下に「刑務所作業製品展示場」とあるが順序が逆だよ。
コメント:黒羽刑務所は令和4年(2022)に閉鎖しました。
10分ほど歩くと「樹齢400年のコウヤマキ」(右)が街道際にそびえている。数年前に「江戸開府400年祭」が行われているが、このコウヤマキに江戸時代の出来事を聞いてみたいものだ。 |
 コウヤマキから数分先を右に入ると墓地があるが、その前の道に「大黒天と十九夜塔」(左)が立っている。十九夜塔には「安政四年」の文字。この前の道が旧街道だったのだろう。
10分ほど歩くと右側の道路際に「弘法大師句碑」(右)が建てられている。
蓑に添う 市野沢辺の ほたる哉
平安時代にこの地を通った弘法大師が詠んだ、と伝えられているが実際は江戸時代に詠まれた句なのだとか。 |
 「練貫十文字」を過ぎ(この辺りは○○十文字と呼ぶ交差点が多い)、上り坂に差し掛かると、十九夜塔や奥州海道と刻まれた道標など多数の「石塔」(左)が並んでいる。右側に「旧奥州道中 練貫」と刻まれた新しい石碑も加わったが これから何百年も残ってほしい。
上り坂が終わり下りに入ると「明治天皇御駐輦記念碑」(右)と刻まれた石柱が建てられている。周りには民家など全く無い所。疲れたので野中で一休み かな。 |
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