「炬燵に入って自家製の干し柿を食べられるなんて」 うらやましー! |
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鍋掛宿を出て那珂川を渡ると越堀(こえぼり)宿という 極めて近い距離の宿場であった。 この宿場は那珂川の増水で足止めとなった
伊達公が小屋を作って水が引くのを待ったのがきっかけで宿場へと発展した、と云われている。鍋掛宿と同様に往時の面影は見られない。 |
やっと色付き始めた「那珂川畔の紅葉」(左)を眺めながら昭明橋を渡り、突き当たりの丁字路を左に曲がると「旧越堀宿の町並み」(右)という大変近い距離の宿場である。
越堀宿は本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠が11軒という小さな宿場であったが明治期の大火でほとんど焼失し、加えて旅人の往来が無くなったことから静かな山間(やまあい)の里に変わってしまった。 |
数分先の浄泉寺境内で「黒羽領境界石」(左)が見られる。 文化10〜11年(1813〜14)、時の藩主大関増業が大阪城勤務の時代に大阪の石工に作らせ舟で運んだもの。この境界石は もともとは那珂川左岸の越堀宿側に建てられていたのだがここへ移設。
境界石の隣りに明治天皇御駐輦之碑が建てられているが山門の外に「御膳水」(右)と刻まれた石碑が見える。甲州街道では何回か見たが奥州街道では珍しい。 |
街道に戻り数分歩くと「奥州街道道標」(左)があり「右 これより江戸四十里 左 これより白河宿七里」と刻まれている。てくてく歩いて40里(160km)、よく歩いたものだ。
道標の少し先で集落が終わりその先は山中の街道となる。
立冬が過ぎたというのに一向に寒くない、とはいっても街道際のはぜの木はきれいに赤く色付いている。「秋だねー」(右)。 |
しばらく歩くと崖の上に「高久靄(あいがい)の墓」(左)と記された標柱が建てられている。谷文晁に学び渡辺崋山らと親交があった南画の巨匠であるが標柱以外に詳しい説明板等は無い。
この辺りは街道の所々に集落があるのだが、どこの家にも「晩秋の風物詩」(右)である干し柿が吊るされており郷愁を誘う。「真冬になったら自家製の干し柿を炬燵に入って食べる」 羨ましいねー。 |
地図に富士見峠と記されているのでさぞや景色の良い峠道と期待したのだがいつのまにか下り道となってしまった。江戸時代は峠道だったのだろうが今は切通しになり なだらかな道。気が付いたら「富士見峠を過ぎて」(左)しまったのだった。
富士見峠から10分ほど歩くと寺子十文字であるがその手前の小学校跡に「寺子一里塚」(右)がある。この一里塚は道路の拡張工事で撤去されたのだが平成七年に現在地に復元。 |
寺子十文字の先の会三寺という寺院の地蔵堂に「はしか地蔵」(左)と云われる111体の木像が安置されている。文亀2年(1501)、はしかで死んだ幼児を弔うために奉納されたのだとか。
会三寺先の余笹川に架かる寺子橋の袂近くには「寺子地蔵」(右)が祀られている。いぼとり地蔵 とも呼ばれているが子育て地蔵として地元の人に大切にされているお地蔵様である。
ところで余笹川 と言えば那須地区の大洪水を思い出す。 |
牛が流されたり西川峰子さんの別荘も流してしまった、という「余笹川」(左)の大洪水は平成10年(1998)のこと。今は大洪水が信じられないほど穏やかな流れの川である。
余笹川を渡り 石田坂 を上り始めると二十三夜塔や馬頭観音などの「石塔群」(右)に混ざって真新しい石碑が1基。大洪水の惨禍を後世まで伝えようと洪水を記録した「石碑」(右)で当時の惨状が克明に刻まれている。
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奥州街道沿いには馬頭観音が大変多いが「安政4年の馬頭観音」(左) が草むらの中にポツンと立つので思わず1枚。安政4年(1857)といえば幕末の騒がしかった時期である。
山裾をU字型に迂回すると左側山の上に「明治天皇・・・」と刻まれた石碑が。近づいて見ると「明治天皇夫婦石御野立所」(右)と刻まれている。毛氈を敷き、休憩がてらお茶を楽しんだのだろうか。建立が昭和11年(1936)となっているが大正を通り越して昭和に入ってもまだ明治天皇の威光があったということなのだろう。 |
刈り取られた田の向こうに「夫婦石」(左)が見える。説明板に由来が縷々記されているが要約すると、
その昔、敵に追われた男女がこの石の割れ目に隠れたが追っ手が目の前に。とその時、白蛇が2匹、敵は恐れ逃げ帰ったとか。 時代が移り誰言うとなく夫婦石と呼ばれるようになったこの石は夜になると互いに寄り添うのだとか。
5〜6分歩くと「夫婦石一里塚」(右)に出会えるが、この一里塚は両側とも現存という貴重なもの。ただし残念なことに左側は道路改修のため半分削られてしまっている。
越堀宿を出てから一里塚を二つも越えてきたが、そろそろ芦野宿が近い。芦野宿では芭蕉さんも立ち寄ったという「遊行柳」見られるそうだ。
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