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| 「まさに江戸時代そのままの奥州道」 がありました。 |
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関東最北の宿場である芦野宿は交代寄合旗本芦野氏の城下町として発展し、最盛期には40軒近くの旅籠があり賑わった宿場であった。
国道294号と平行する旧街道は、宿場の入口と出口に枡形道が残り往時の雰囲気を少しだけ感じることができる。 |
 山間の坂道を下り、途中から左側の旧街道を歩き、菖蒲橋を渡ると目の前がパッと開ける。数分歩き左に曲がると「芦野氏居館跡」(左)と記された大きな標柱や説明板がある。芦野氏初期(鎌倉時代)の遺跡と考えられるそうだが1000年近く前の居館跡が残っているとは貴重な。
奥州街道はこの先で国道294号を横断し奈良川を渡っていく。川を渡ると「川原町地蔵」(右)が鎮座。この地蔵様は享保12年(1727)に建立されたもの。よく見ると片足を投げ出した座り姿。長い間座っていたので疲れてしまったのだろうか。可哀そうに。 |
 お地蔵様にお参りして宿内に入ると早速「屋号常夜灯」(左)が迎えてくれる。この先、宿場内各所で見られるが屋号看板ではなく屋号常夜灯とは考えましたなー。
枡形道を通り宿場の中心へ来ると。ありました「丁子屋」(右)が。丁子屋といえば東海道丸子宿のととろ汁が有名だが、こちらの丁子屋は江戸中期創業、300年の歴史を持つウナギ料理の老舗。丁子屋の屋号を持つ安達家は江戸時代から続く旅籠でもある。 |
 丁子屋の道路反対側に「芦野宿碑」(左)があるがここは問屋場跡で奥の方に明治天皇行在所記念碑が建てられている。
ちょっと先の郵便局は番所があった場所。その前に仲町の道標が立っている。
郵便局横を右に曲がり坂を上がって行くと樹齢400年という しだれ桜 の大木がありその先に「平久江家の門構え」(右)が見られる。武家屋敷特有の門構えなのだそうだ。 |
 さらに坂道を上ると那須歴史探訪館の前から「芦野氏陣屋跡」(左)に行くことができる。芦野氏陣屋跡は通称御殿山あるいは桜ケ城と呼ばれており天文年間(1532〜55)の築城と云われている。江戸時代に交代寄合旗本となった芦野氏は、二の丸に陣屋を置き、廃藩置県まで続いていた。
二の丸の奥に「樹齢470年のコウヤマキ」(右)がそびえているが、このコウヤマキは太田道灌の設計で修築した桜ケ城の築城記念樹なのだとか。 |
 街道に戻りると、すぐ先の左側に白河石で造られたという蔵風の建物がある。この建物は 「石の美術館」(左)であるが、ここは 本陣 があった場所。 でも表示がないんだなー。
宿場の終わりまで来ると「新町地蔵」(右)が鎮座している。傍らの説明板に「人々の様々な願いを一手に引き受けながらも、いやな顔もせずほほえみかけるお地蔵様」とある。
そういえば仏頂面のお地蔵様ってのは見たことないなー。 |
 新町地蔵尊を過ぎて国道を横断すると地元産品の直売所があるが、その奥、彼方に「遊行柳」(左)が見える。芭蕉もあこがれたという遊行柳には、
「遊行上人(一遍上人)が奥州行脚の際、柳の精が老人の姿をして上人の前に。 上人が十念と念仏札を授けると成仏した」との言い伝えが残されている。
年月を経て西行上人が訪れ、芭蕉が訪れ、蕪村も訪れたという遊行柳を我々も訪れたのだった。
遊行柳のさらに奥にある温泉神社の境内に「樹齢400年のイチョウ」(右)がそびえている。凄いのはその樹高、10階建てマンションよりもっと高い35m。 |
| 遊行柳のそばには西行・芭蕉・蕪村の歌碑・句碑がある。 |
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道のべに 清水流るる 柳かげ
しばしとてこそ 立ちどまりつれ 西行 |
田一枚 植えて立ち去る 柳かな 芭蕉 |
柳散 清水涸 石処々 蕪村
(柳散り清水かれ石ところどころ) |
| 街道(国道294号)に戻り5〜6分歩いて左側の石碑前から旧道の集落に入ると二十三夜塔や大黒天などの石塔群が見られる。 |
 さらに歩くと階段の上に「べこ石」(左)なる大石が横たわっており、3500もの細かな文字がびっしり刻まれている。嘉永年間に戸村忠恕なる人物が道徳を説くために建立したのだとか。
(べこ=牛に似た石なので べこ石)
集落を出て国道を横断し今度は右側の旧道に入って行く。次の集落をしばらく歩くと、またまたありました戸村忠恕の石碑が。「諭農の碑」(右)といわれ農民を諭す言句が刻まれているということだが、つまりは「ああせい、こうせい」の説教なのである。 |
 諭農の碑 のすぐ先に「板屋の一里塚」(左)が左右両側とも現存。が、今は塚の間を切通しにしてしまった為一里塚はガケのずっと上になってしまった。説明板が道路際にある。
山裾の道を歩き集落に入ると手書きの看板に 「手つかずの旧奥州道」 と記されている。地元の人によると「まさしく江戸時代のままの手つかずの奥州街道」(右)なのだそうだ。
この先の「時道楽」のご主人の話では残念ながら民家の庭に入ってしまい通り抜けることは出来ない。
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| さきほどの山裾の道を歩いていたとき、耕運機に乗った農家の方が「高瀬までいくと面白いものが見られるから是非寄って行って」という。 |
  「面白いもの」とは骨董展示館のことであった。「時道楽のご主人」(左)が趣味で集めたという骨董品を展示しているのだが無料で見せてもらうことができる。
「これを聴いてみて」といって聴かせてくれたのが横のラッパ型蓄音機。曲名は忘れたが素晴らしい音。全員が「オー」とうなってしまったほどの良い音だった。
少し先から「国道294号」(右)に合流し、しばらくは国道をてくてくと。 |
 30分弱歩いただろうか、道路際に「座り地蔵」(左)が。この先で左に入り寄居の集落を通る道が旧奥州街道。
ところで、もう午後2時近い。国道沿いだからと安心したのだが食堂はおろか商店もコンビニも無い。どうしよう。困った!と、集落に入ってやっと1軒の商店が見つかった。
お店のお母さんが優しいんだ。「お弁当は無いけどカップ麺ならあるわ。お湯ぐらい入れてあげるわよ」 ということで「お店横の庭で遅い昼食を」(右)。サービスしてくれた自家製のタクアンが旨かったーっ。 |
| 優しいお母さんのおかげで全員元気百倍。もう少し歩けば下野国から陸奥国・白河藩に入れる。 |
 寄居の集落を抜けると再び国道294号に合流。そのちょっと先に「泉田一里塚」(左)が現存している。左側のみだが当時の形がそっくり残っているという貴重な一里塚である。
再び国道をてくてくと。旧街道から国道に合流するところに「ふくべ(瓢)石」(右)なる瓢箪形の石が置かれている。仇を求めてここまできた飯沼勝五郎がつれずれに彫ったとも云われているが定かではない。 |
 ふくべ石から10分ほど歩き国道から右へ旧街道に入ると山中集落であるが民家の塀の中に「明治天皇山中御小休所碑」(左)が建てられている。
明治天皇も「山の中の野立て」ではなくてほっとしたことだろう。
国道に合流して山間の緩い坂を上って行くと頂上にかなり大きな「馬頭観世音」(右)が建てられている。奥州街道沿いには馬頭観音が多いがこれだけ大きな馬頭観音は初めてである。
いよいよ陸奥国が近くなってきた。この先に「境の明神」と呼ばれる神社が国境(下野/陸奥)の両側にあるそうだ。
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