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①見付宿から小豆餅
②小豆餅から落合橋
②落合橋から西気賀
③西気賀から三ヶ日
④三ヶ日から和田辻
⑤和田辻から御油追分
姫街道の一里塚
①見付宿から小豆餅まで
・・・
街道地図
姫街道の起点は東海道・安間であるが見付宿の西外れに姫街道の案内板があるのでここを出発点とした。
まず目指すは天竜川・池田の渡し跡。その先は橋が無いので1キロメートルほど下って新天竜川橋を渡って行く。
新天竜川橋を渡ったらそのまま旧東海道を歩き安間追分から姫街道に入り北上。
市野宿を過ぎたら 八丁とうも の長い直線道路を歩き、遠州鉄道の踏切を渡り、宇藤坂、二重坂を上って
三方原台地外れの小豆餅までの旅とした。
平成30年4月12日
新幹線、在来線を乗り継いで到着した駅はジュビロ磐田の本拠地があるJR磐田駅。ここから見付宿まではちょっと距離があるのでバスで加茂川まで行くことに。
東海道見付宿の西外れに
「これより姫街道 三州御油宿まで」
(左)の案内がある。この道は正式には姫街道ではなく池田近道と呼ばれる池田渡しに通じる道だが今ではこの道も姫街道。ここを出発地点とした。
池田近道に入って数分、三叉路の真ん中に
「秋葉常夜灯」
(右)が立っている。旧道はこの右側の坂道を上っていくのだがさっそく三叉路際を左に入って西光寺に寄道を。
西光寺は文永2年
(1265)
創建、慶安元年
(1648)
に三代将軍徳川家光から御朱印地三十二石を与えられた古刹。その
「表門」
(左)は徳川家康が別荘として中泉村に築かせた中泉御殿の表門を移築したもので総ケヤキ造りの薬医門。
階段上の
「鐘楼門
(山門)
」
(右)は寛政元年
(1789)
の建立。この門をくぐると右側に樹齢500年という楠の大木がそびえている。最近は縁結びのパワースポットとして人気があるのだとか。
本堂には二代将軍秀忠公の五女東福門院の念持仏であった日限地蔵尊が祀られている。
三叉路に戻り右側の坂道を上っていくと兜塚公園の前に出るが、ここに「旧一本松」と刻まれた石碑がポツンと。平成3年
(1991)
に建てられたものだが詳しいことは分からない。
公園に入ると正面にこんもりした森が見えるがここは
「兜塚古墳」
(左)。五世紀ごろに築造された円墳で、その形が兜を伏せた状態に似ていることから古くから兜塚と呼ばれていた。
公園を出たら国道に合流し すぐに右側の旧道に入って行く。旧道に入って数分歩くと
「秋葉常夜灯」
(右)の鞘堂があるが この辺りは立場があった場所。
秋葉常夜灯の先から下り坂。この坂を
「一言坂」
(左)と呼んでいるがここは「一言坂の戦」が行われた場所。
元亀3年
(1572)
、袋井の三箇野川の戦いで敗れた徳川軍は浜松城目指して敗走したが、ここで武田軍に追いつかれ再び合戦に。その時活躍したのが本田平八郎忠勝。大奮戦し敗走する徳川軍を救ったのだった。
坂の途中から左に曲がると県道413号
(旧国道1号)
に合流。 ここに建てられた石碑は
「一言坂の戦跡碑」
(右)。
ここまで来たので県道を少し戻り京見塚にも寄り道を。
「京見塚古墳
(主墳)
」
(左)は径47m、高さ約9mの大型円墳で5世紀中頃の築造とされている。また周辺には6世紀頃に築造された13基の小型の古墳や古墳の表面に並べる埴輪を焼いた埴輪窯が2基もあったという珍しい群集墳。
主墳下の石碑は桓武天皇の第四皇子といわれる
「戒成王子の歌碑」
(右)。
衣手の なみだに空もはれやらで 都のかたは白雲ぞたつ 戒成王子望郷の歌
京で病にかかり従者とともに京を離れてこの地に移り住んだ戒成王子だが、都恋しさからこの塚に上り西の空を眺めては京を偲んでいたという。このことから京見塚と言われるようになったのだとか。
街道に戻り一言坂を下って行くと 池田近道(姫街道) と記された案内表示があるので細い草道を下って行き磐田グラウンド南側を通って先ほど分かれた道に合流。
この先は明治時代の耕地整理により旧道は消滅状態。
10分ほど歩いた先の
「知恩斎の山門」
(左)は元禄11年
(1698)
から明治初頭まで8代続いた皆川陣屋の陣屋門を移築したもの。 皆川陣屋は知恩斎の南700mほどの所にあったが今は表示板があるのみ。
山門脇の御堂に納められているのは
「一言観音」
(右)。
徳川家康が一言坂の戦で武田軍に攻められているとき、この観音様に 「戦いに勝たせて下さい」 と一言だけお願いしたところ無事に浜松城に帰ることができたという。以来この観音様を一言観音と。元々は一言坂沿いにあった。
この先は農道を歩き、国道1号のガード下を通り、豊田ポケットパークに寄り道し、妙法寺横を通って到着した場所は行興寺。
延久元年
(1069)
創建の行興寺は熊野
(ゆや)
御前ゆかりの
「熊野の長藤」
(左)で有名な寺。 藤の花をこよなく愛した熊野が本堂前に植えたと伝えられる藤は樹齢800年、花の長さは1mにも達するそうだが、時期がちょっと早かった。
本堂脇に
「熊野とその母の墓」
(右)がある。平宗盛の寵愛を受けた熊野が、病母の見舞いに赴きたいと暇を乞いたが聞き入れられず思い余って
いかにせん 都の春も惜しけれど 馴れしあずまの花やちるらん
と詠み 哀れに思った宗盛から暇を与えられ故郷に帰ったという。
冒頭の写真は行興寺隣の西法寺跡公園の藤棚です。
行興寺から数分歩くと
秋葉常夜灯
が目に入るが その対面に
「池田の渡し 歴史風景館」
(左)があるので一休み。
風景館の説明書きによると天正元年
(1573)
、浜松城主の徳川家康は池田の船守に天竜川の渡船運営権を保証。これにより江戸時代を通じて天竜川の渡船を独占的に運営。ここを渡し舟で対岸へ渡り姫街道に入りたいのだがそれは無理。
風景館から4~5分南下すると天白神社の境内に「夢舞台・池田渡船場跡」の碑があり、さらに数分南下すると天竜川堤防の下に
「天龍川渡船場跡碑」
(右)が。
「池田入口」の交差点まで南下したら
「新天竜川橋」
(左)で天竜川を渡るのだが今は広い歩道があるので安心して歩くことが出来る。東海道を歩いたときは天竜川橋
(左の青い橋)
を渡ったが、この時は歩道が無く狭い道。危険ということでやむなくバスに乗ってしまったが今度は安心。だが橋を渡りきるのに15分も掛かってしまった。
橋を渡ったら旧東海道に入るために堤防上を下流に向かって4~5分、その途中に
「明治天皇玉座跡碑」
(右)がある。 ここは明治11年
(1878)
、北陸東海御巡幸の明治天皇が休憩された場所。
その先の六所神社際に
天竜川木橋跡と舟橋跡
の木柱が建てられている。
六所神社前から西へ延びる道が
「旧東海道」
(左)。車の通りが少ないのでノンビリ歩ける。
東橋跡、軽便鉄道軌道跡、かやんば高札場跡
などの木柱を見ながらかれこれ10分、到着した場所は松林寺。
境内左手の
「薬師堂」
(右)は第三代将軍徳川家光が浜松城主に命じて建立させたと伝えられるもので、当寺は江戸時代に2回の火災に遭っているが薬師堂だけは焼失をまぬがれている。
数分歩いた先の屋敷塀に囲まれた家は
「金原明善生家」
(左)。 暴れ天竜 と恐れられた天竜川だが、私財を投じて堤防を築いたり、川の上流に植林をするなど治山治水に貢献した篤志家。建物は明善記念館として多くの遺品が展示されている。
数分歩いた先の路地を入り県道312号を横断した向こう側の普傳院に
「千体堂」
(右)が保存されている。戦国時代、徳川、武田の戦いで討ち死にした将兵を供養するため村人が千体の木彫仏を安置した千体堂を姫街道沿いに建立。その千体堂を普傳院に移築・保存。中を覗くと多数の
木端仏
が。
街道に戻り100mほど歩くと右へ入る道があるが ここが
「姫街道の起点」
(左)。説明板に 「本坂通(姫街道)安間起点」 と記されている。この西側に安間一里塚があったが現在は標柱があるのみ。
姫街道に入り国道1号の高架下を通り過ぎた右側の公園は
「旧名主安間家跡」
(右)。
姫街道は県道45号を斜めに横切って行く。下石田中 の交差点を横断し2~3分、「半蔵坊五里十一町」と刻まれた半蔵坊道標が十字路際にひっそりと立っている。奥山半蔵坊に通じる道だが20分ほど歩いた先の道標に刻まれているのは「奥山半蔵坊 五里十四町」。
下石田中の交差点から5~6分、道路際に
「秋葉常夜灯」
(左)が。 この常夜灯は比較的最近の大正12年
(1923)
に建立されたもの。広場奥の建物は馬頭観音を安置する長泉庵。その前に嘉永5年
(1852)
に奉納された手洗鉢が。
15分ほど歩き安間川を渡ると姫街道最初の市野宿だが宿場時代の面影は無い。
本陣があったはずだが今は場所すら分からない。宿場の面影がわずかに感じられるのは料理旅館の
「熊谷館」
(右)だけだが現在は営業していないようだ。
市野宿の西側枡形を出たすぐ先の熊野神社境内に高さ3.5mという遠州地方最大の
「宝篋印塔」
(左)がある。延享3年
(1746)
に造立されたもので浅羽一色村の人々が功徳を願って寄進したもの。
熊野神社を出ると真っ直ぐな道が遥か彼方まで続くが、この道は
「八丁とうも」
(右)と呼ばれている。「とうも」という言葉はこの地方に分布している方言で「たおも
(田面)
」が訛ったようで関東地方での呼び名は八丁畷。
八丁とうも の先から右へ曲がると長福寺という無住の小さな寺があるが、この墓地奥のちょっと変わった形の墓石は
「北堂
(ほくどう)
和尚の墓」
(左)。木綿栽培普及に功績のあった和尚なのだとか。
長福寺の道路反対側石碑に 史跡 一里塚 と刻まれているがここは
「小池一里塚跡」
(右)。日本橋から65里。
説明板に「織田信長が一里を36町と定め、街道の一里ごとに塚を築き・・・」とあるが、この少し後の時代に、一休さんがこんな歌を詠んでいる。
門松は冥土の旅の一里塚 目出度くもあり目出度くもなし
小池一里塚跡のすぐ先の丁字路を左折し次の三叉路を直進すると大養禅院の門前でるが、ここにある
「秋葉常夜灯」
(左)が立派。 鞘堂の屋根に乗っているのは、なんと鯱。
この先で右、左と曲がったあと遠州鉄道の踏切りを渡り二俣街道を横断していく。
十数分歩くと道路際に姫街道を歩いたどなたもが「なんだろうか?」と思いながら通り過ぎていく
「馬乗り場跡」
(右)と記された標柱が。気になる場所だが説明書きは無い。
街道はこの先の五枚橋を渡り
(旧道に続く旧五枚橋は下流側にあった)
すぐに旧道に入って宇藤坂を上って行く。
宇藤坂を上ったら十字路を右に入ると見えたのは
「旧俊光将軍社跡」
(左)。祀られていたのは坂上田村麻呂の息子と伝えられている俊光将軍。旧 としているのは明治時代に有玉神社に合祀され小祠だけが残ったため。
十字路まで戻り数分歩くとここにも鞘堂に入った秋葉常夜灯がある。
ほどなく県道261号に合流。その手前の道端に
「最古の道標」
(右)が。天保3年
(1892)
建立なので とても古い というわけではないが建立年月が刻まれている道標としては浜松最古 なのだそうだ。刻まれている行き先は「右 きが かなさし 左 庄内道」
県道に合流して二重坂を上ると三方原台地。この辺りの地名を 小豆餅 というが、バス停にも
「小豆餅北」
(左)とある。
小豆餅には徳川家康にまつわる面白い伝説が。
三方原の戦いで敗れた家康が浜松城へ引き上げる途中、茶屋で小豆餅を食べていたところ武田軍が急接近。慌てた家康は代金を払わず逃げ帰ったが、この店の老婆が追いかけ代金を取ったという。その場所が小豆餅から2kmほど南で、銭取というバス停がある。
出発前に予定した三方原台地に到着。国道257号を左へ曲がった所に バス停・小豆餅北 があったので今日の街道歩きはここまで。
次の街道
小豆餅から落合橋
まで
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