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大山街道 柏尾道 道中記

①柏尾から菖蒲沢まで   ②菖蒲沢から下糟屋まで

① 柏尾から菖蒲沢まで   
街道地図

柏尾道の起点は東海道戸塚の柏尾から。 起点に 「柏尾の大山道入口」 と記された表示がある。その先に柏尾不動堂があり傍らに
「従是大山道」と刻まれた道標や庚申塔・燈篭が建てられ雰囲気を盛り上げてくれる。柏尾道はこの先で東海道線を越え、阿久和川沿いを
歩き、岡津から丘陵地を上っていくがこの辺りは大規模宅地開発で旧道が消滅。国際親善病院脇を上ると旧道が復活。上飯田で
鎌倉街道上道と交差しその先の境川を渡ると藤沢市。長後を通って菖蒲沢で今回の街道歩きを終了とした。
令和2年2月6日

東海道戸塚の不動坂から100メートルほど保土ヶ谷寄りに「柏尾道の起点」(左)がある。ここには「大山前不動」の標柱もあるので迷うことはないだろう。

柏尾道に入ってすぐの所にあるのが正徳3年(1713)建立の不動明王が祀られている「柏尾不動堂」(右)。ここには「従是大山道」と刻まれた明治5年(1872)建立の道標(右の大きな石塔)や享保12年(1727)、寛文10年(1670)、正徳3年(1713)建立など4基の道標がある。その他に延宝8年(1680)の庚申塔や元治2年(1865)の灯篭などがあるが、これらは元々ここにあったものではなく近代になって集められたもののようだ。

かつては不動堂の前を通って阿久和川沿いを西進したようだが今は東海道線で分断されてしまったため瀬谷柏尾道路で東海道線を横断していく。

10分ほど歩くと阿久和川に架かる富士橋を渡るが、ここに「旧富士橋の親柱」(左)が保存されている。この橋には次のような伝説が。ある年の洪水で橋が流されてしまったが、大山道を利用していた甲州商人が国元の猿橋の古材で橋を修復。村人がその恩義に感じて橋名を猿橋としたが、いつの頃からか富士橋と呼ばれるようになってしまったのだとか。

富士橋を渡ったら阿久和川沿いの道を歩きちょっと寄り道を。向かった先は「松尾神社」(右)。鎌倉時代の文禄元年(1234)に京都の松尾大社の分霊を勧請して創建。江戸時代には大山参詣の旅人が参拝に立ち寄り賑わったそうだ。
なんと、ここの狛犬は阿吽の配置が左右逆。地元の人に聞いたが理由は判らない。

街道に戻り川沿いを15分ほど歩くと擬宝珠の乗った新鷹匠町橋の傍らに 村社三嶋神社 と刻まれた社号票があるのでここにも寄り道を。

「三嶋神社」(左)は境内に掲示されている由緒に「和銅6年(714)、奈良時代相模国風土記に鎌倉郡中川村字岡津三嶋神社として文献にある」と記されている。とすると大変に歴史のある神社。 由緒には天文5年(1536)に再興とある。

阿久和川を挟んだ南側の「西林寺」(右)は徳川家康の側女於万の方が出家して清源院尼と称し草庵を設けた場所。
手入れされた参道を上ると左手の鐘楼の下に出羽三山供養塔道標や原田油右衛門頌徳碑、徳本上人名号塔など。

川沿いまで戻り数分歩いたら不動橋前十字路を左に曲がっていく。その角、永明寺別院門前の 不動明王が乗った石塔は享保10年(1725)「大山道道標」(左)。台座に大山道と刻まれ側面に「右ほしのやミち」とある。「ほしのみやミち」とは座間の星の谷観音と弘明寺観音をつなぐ巡礼道。隣の石塔は文政13年(1830)の出羽三山供養塔。

大山道道標前から数分歩くと「永明寺」(右)の裏参道。永明寺は由緒によると、岡津郷領主で太田道灌の孫である太田越前守入道宗真が祖父道灌の菩提を供養するために天文11年(1542)に創立。

永明寺を出て山裾を回り込むと「双体道祖神と地神塔」(左)が祀られている。元々ここにあったのではなくこの先の西田谷(現・桂坂)にあったが大規模な宅地開発で行き場がなくなりここへ移されたもの。庚申塔などは中川地区センターの駐車場脇に移設。地神塔は道標を兼ねており、刻まれた道筋は「上り 大山道 下り かしお道」。

山裾を回り込んだ柏尾道はその先の大規模宅地開発で消滅。国際親善総合病院横の坂道を上ると旧道に復帰。坂を上りきった先の畑の中の道を通って県道402号と交差する和泉小入口交差点までくると「庚申塔道標」(右)が1基。文化6年(1809)のもので、行き先は「東 かしお 南 藤沢 道」「西 大山道 北 八王子道」。

柏尾道は和泉小入口交差点を横断し和泉小学校先の三叉路を左に曲がって行く。

住宅地の中の狭い道をかれこれ15分ほど歩くと長後街道の広い道にぶつかるので横断。細い道に入ると「蚕御霊神塔と庚申塔が2基」(左)。説明板によると、慶応2年(1866)、霜害のため桑が枯れてしまい育てることができなくなった蚕を地中に埋めたが、その時の慰霊のために明治11年(1878)に建立したという。

すぐ後ろの「神明神社」(右)は執権北条氏打倒を画策した泉小次郎親衡が建暦2年(1212)に当地に館を築いた際、鬼門除けとして勧請したと伝えられている。入口に泉小次郎伝承地と記された標柱が建てられている。

長後街道に戻り10分ほど歩いたら旧道に入る。しばらく歩くと鎌倉街道上道と交わるのでここを北進し無量寺の先辺りで鎌倉街道と分かれ千束橋で境川を渡ったのだが今は橋が無い。

長後街道まで戻り高鎌橋を渡ると藤沢市。境川を渡った先はちょっと分かりにくいが丁字路際に「如意輪観音」(左)が見えたら右へ曲がって行く。隣の石塔は道標だが、風化が進み文字は全く読み取れない。

如意輪観音から15分ほど歩くと滝山街道と交差。ここを滝山街道に沿って南下するのだが、この辺りはかつての藪鼻宿。江戸時代から交通の要衝で賑わっていたが今はちょっと寂しい商店街。100メートルほど歩くと「藪鼻の辻」(右)と呼ばれた十字路。柏尾道はここで滝山街道と分かれ右へ曲がって行く。

小田急線の踏切りを渡った数分先、交差点際に「仙元塚」(左)と呼ばれる塚がある。宝永4年(1707)の富士山の噴火で降り注いだ火山灰を集め築造したと云われているが、塚及び仙元(浅間)塚碑が築造されたのは慶応2年(1866)

その先の長後市民センター駐車場脇に各地から集められた「石仏石塔群」(右)が30基。 その中には先ほど通ってきた藪鼻の辻にあった大山道道標や仙元塚にあった芭蕉句碑・髭題目供養塔なども。

柏尾道は市民センターの5~6分先から旧道に入り引地川を渡って行くのだが今は橋が無いので六会橋で迂回。県道22号に合流すると歩道際に「庚申塔が3基」(左)。右側と左側の庚申塔は道標も兼ねており、左側の庚申塔には「東 かしおみち  西 大山みち」とある。

東山田信号で左に曲がり菖蒲沢と葛原の境界線上にある道を西進。宮の腰信号の先に「豊受大神(だいじん)(右)があったので寄り道を。広い境内に巨木がそびえており歴史ある神社のようだが、由緒がないので詳しいことは分からない。
この近くにバス停葛原があったので柏尾道歩きはここまでとした。

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