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柏尾道の旅 2回目は前回終了した菖蒲沢の豊受大神前から。旧中原街道と交差する「用田の辻」を横断し、相模川を越える戸田の渡し跡を通って伊勢原の下糟屋まで。 下糟屋で大山街道青山道(矢倉沢往還)に合流し大山に向かう。 この道は往時の道筋が比較的よく残っており、不動明王が乗った大山道道標が何ヵ所にも見られる。 下糟屋から先は矢倉沢往還で歩いているので今回はここまでとした。 |
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豊受大神を出て街道に入ると道路向う側に地蔵祠と文字道祖神が見える。 |
しばらく歩くと塀の一角がガラス張りに。中を覗くと「御所見塚説明板」(左)と石塔が1基。説明板によると、桓武天皇の第三皇子葛原親王より出た長田武蔵守忠望がこの地に居を構え垂木御所と呼ばれていた。この御所を菖蒲沢の塚から眺めることが出来たので御所見塚と呼ばれたのだという。残念ながら塚は昭和35年(1960)に壊されてしまった。
10分ほど歩いた先の歩道橋の下にある石塔は「庚申塔道標」(右)。元禄15年(1702)のもので、かなり読み取りにくいが右側面に「従是ふじさわえのしまへの道」 左は「従是かしをとづかへの道」と刻まれているようだ。 |
ほどなく到着した交差点は中原街道と交差する用田の辻。交差点の向うに「不動明王道標」(左)が見える。台座が道標になっており正面に「右大山道」と刻まれているようだが風化が激しくほとんど読み取れない。
用田の辻を越え、新幹線の下を通り、目久尻川を渡ったら左へ曲がると広々とした公園があるが、その一角に「不動明王道標や各種石塔」(右)が集められている。
右側の不動明道標には「左大山道 ふち沢 かしを 道」と刻まれ、隣の道標は「右 座間** *** 道」。 |
公園のすぐ先、階段上の寿閑寺は弘治3年(1557)の創建。本堂前の鐘楼にちょっと小ぶりの「梵鐘」(左)が吊るされているが、これは明治の英雄乃木将軍の祖先である乃木寿閑が延宝3年(1675)に寄進したもの。
長閑な旧道を5~6分、真光寺境内の地蔵堂に鎮座しているのは「子育地蔵3体」(右)。寛延4年(1751)、宝暦5年(1756)、文政8年(1825)のもの。境内端の擁壁上に道祖神や五輪塔が無造作に積み上げられているのが残念。 |
真光寺を出て坂道を下って行くと十字路手前に地神塔がある。側面に文字が刻まれており道標のようだが残念ながら読み取れない。 |
旧道はその先で県道22号に合流。坂道を上って行く途中にあるのが「庚申塔道標」(左)。しっかりと刻まれた文字は、左側面に「此方大山道 右一の宮 左国分寺」 右側面は「此方かしを道」。
坂を上りきった先の交差点を左に曲がる道が柏尾道だが右へ曲がって「本郷神社」(右)に寄り道を。明治7年(1874)に神明社、八幡社、山王宮、白山社、稲荷社を合祀して五社宮と称していたが大正5年(1916)に本郷神社と改称。境内社の天満宮は小さな社殿だがなかなか立派。 |
先ほどの交差点まで戻り50メートルほど歩いたら右の細い道へ入ると「西国秩父坂東供養塔道標」が建てられているが、これは弘化4年(1847)の建立。左側面に「此方 大山道」、右側面には「此方 こくふんし ほしのや 江戸新道」とある。 右の石塔も「西国秩父坂東供養塔」。
この細い道を丁字路の突き当りまで歩くと比較的新しい祠の中に明治4年(1871)の「不動明王道標」(右)が。正面は不動明王と刻まれているが、右側面に「南一之宮道」、左側面は「北 かしお 藤沢 道」。 右の石塔は二十三夜塔。 |
柏尾道はこの丁字路を右に曲がり、すぐに左へ曲がって行く。
5分ほど歩いた先の祠の中にあった「子育地蔵」(左)はよく見ると赤ん坊を抱いている。その赤ん坊には手編みの涎掛けが掛けてあるではないか。
珍しい地蔵尊を見たが、その先の十字路を右へ曲がるとこの辺ではあまり見かけない「馬頭観音」(左)が。さらにその先には「双体道祖神」(右)も。 |
ほどなく下り坂になるが、この坂道を「居合坂」(左)という。標柱に記されている坂名の由来によると「坂を上りきったところが入会地であった。それが転訛して居合になったといわれているがはっきりしない」とある。土地の古老に聞いても分からんのだろうなー。
JR相模線の踏切りを渡り永池川を越えしばらく歩くと 彼方に銀杏の大木が見えるがここは「戸田の渡し跡」(右)。説明板によると、舟2隻を常備した渡しで旅籠や茶屋があり賑わった宿場だったという。ここに安政2年(1855)の不動明王道標があるが、台座に刻まれている文字は「大山」のみ。この先の相模川を越えるには上流の戸沢橋を渡って行く。 |
戸沢橋を渡り下流側に100メートルほど歩くと「戸田の渡し碑」(左)が建てられているが説明などは無い。戸沢橋の親柱に次の様な説明が刻まれている。「戸田の渡し この渡しは大山道の一部であり江戸の昔より戸田村と門沢橋村の間
渡し巾百十メートルほどを庶民の足 また物資の輸送用として明治の末まで盛んに用いられた」 とある。
戸田の渡し碑前から旧道に入り4~5分,、県道22号に合流する際に石仏・石塔が7基。
県道を10分ほど歩くと交差点際にお馴染みの「不動明王道標」(右)がある。側面に「左 大山道」と大きく刻まれ、正面は「右 戸田舟渡 左 ほしのや観音 道」。 |
さらにその先10分の所にも「不動明王道標」(左)がある。天保6年(1835)のもので正面に「右 大山道」。傍らの説明板に「左 飛ら塚(ひらつか) 左 戸田船渡」の表示があると記されているがこれはほとんど読み取れない。
ほどなく県道22号と分かれ渋田川沿いを西進。小田急線の踏切りを越えると東京赤坂見付前を出発した「大山街道青山道に合流」(右)して矢倉沢往還の糟屋宿に入って行く。
この先は東海大学病院前、上粕谷を通って大山街道田村道と合流し大山に向かうが、矢倉沢往還の旅で歩いているのでここで終了とした。 |
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