第59宿今須宿
いますじゅく |
美濃路最後の宿場である今須宿は妙応寺の門前町として賑わい、さらに街道が整備されると
商業地としても賑わった宿場であった。 しかし、明治以降は近くを東海道線が通りながら駅が
無かったため山間の静かな里へと変わってしまった。 |
街道地図 |
| 平成22年3月12日 二条良基(南北朝時代の公卿・関白太政大臣)とは、なんと粋狂なお人だ。 |
 関ヶ原宿を出てかれこれ一時間、今は切り通しとなり舗装もされて難なく歩ける「今須峠」(左)であるが江戸時代には 馬も滑る と言われた難所。特に冬季は積雪に悩まされた峠越えであった。
峠を越えた先の下り坂途中で何体かの野仏が見られる。と言っても崖の中腹、下を見て歩いていると見落としてしまう。野仏の先で国道21号を横断すると「今須一里塚」(右)が出迎えてくれる。この一里塚は国道工事で撤去された塚を元の位置より少し東側に復元したもの。嬉しいねー復元してくれたとは。 |
 中山道は一里塚の先から国道脇を下っていくのだが下らずに再度国道を横断して踏切を渡り青板神社に寄り道を。神社前の大石は「徳川家康腰掛石」(左)。関ヶ原の戦いに勝利した家康は近江佐和山に軍を進める途中、今須本陣の伊藤家で一休みしたがその時腰掛けた石。本陣廃止後、当境内に移し公開展示。
街道に戻り坂道を下って「今須橋」(右)を渡ると今須宿。かつては問屋場が7軒もあったという賑わった宿場であるが今は静かな静かな山間の里。 |
 その静かな町並みに街道の雰囲気は残るが宿場時代の面影はあまり感じられない。「本陣跡付近」(左)まで来ると説明板と今須宿碑が建てられている。ここから小学校一帯が伊藤家本陣があった場所で小学校の駐車場辺りは美濃16宿中唯一の2軒の脇本陣があった場所。
本陣跡反対側のトンネルの向こうに「妙応寺」(右)が僅かに見える。当寺は正平15年(1360)創建で、岐阜県で最も古い寺院。 |
 本陣跡の少し先に見える古民家は美濃16宿で唯一の「現存の旧問屋場家屋」(左)。今須宿には人馬・荷物の継ぎ立てを行う問屋場が7軒もあり商業地として大変な賑わいであった。その中でも山崎家の建物は往時の繁栄ぶりを知ることができる貴重な建物。
その先、板塀の一角にある「常夜灯」(右)は京都の問屋河内屋が建立したもの。大名の荷物が行方不明になったとき金毘羅様に願かけしたところ発見されたので そのお礼に建立したのだとか。 |
 常夜灯の先を道なりに十数分、「車返しの坂」(左)なる草道があるが云われが面白い。
南北朝の時代、粋狂な人がいたもので、不破関屋の荒庇(ひさし)から漏れる月の光が面白いと聞き、都から牛車に乗ってやって来たのが公卿の二条良基。ところが、この地で屋根は直してしまったと聞き
「なんだ面白くない」 と引き返してしまったのだとか。
この先の国道21号を横断して数分、芭蕉が野ざらし紀行の帰り この地で詠んだ句の「句碑」(右)が並んでいる。
年暮れぬ笠着て草履履きながら はせを
正月も 美濃と近江や 閏月 はせを |
  芭蕉句碑のすぐ先にある石碑は「寝物語碑」(左)。その隣に細い溝があるが、ここが「県境」(左)であり、かつては国境でもあった。国境(県境)の隣に美濃国と近江国の「国境碑」(左)が建てられている。
ついに美濃路の旅が終わり近江路の旅となった。 |
 国境を越えたすぐ先に「寝物語の里碑」(左)が建てられており傍らの説明碑に由来が記されているので要約を。
国境にある溝を挟んで番所や旅籠があり「寝ながら他国の人と話し合えた」ので寝物語の名が生まれた。また「常盤御前が隣の宿の話し声から家来の江田行義と気付いた所」とも「静御前が江田源蔵と巡りあった所」とも伝えられている。
寝物語の里を出てしばらく歩くと神明神社鳥居脇に「旧東山道」(右)が僅かな区間だが残っている。この先の坂を下り踏切を渡ると近江路最初の宿場となる柏原宿。 |
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