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東金御成街道道中記

 ①前原西追分から六方町交差点まで     ②六方町交差点から沖十文字交差点まで    ③沖十文字交差点から東金御殿まで

③沖十文字から東金御殿まで 街道地図

東金御成街道の旅、最終回は沖十文字から東金御殿まで。

消滅した旧道の変わりに県道289号を20分ほど歩いて旧道復活地点へ。ここからは上り下りの連続する
「蛇田谷の険」、「馬渡しの険」と続き、滝台の平坦地に入る。圏央道を越えると一部消滅した部分があるが
国道409号に合流したところで新規に造成された御成街道は終わり。 その先は既存の生活道路を整備して
御成道にしたのだとか。 東金市油井地区に入ると「おあし坂」 と呼ばれる200mほどの旧道が往時のまま
残されており古道歩きの楽しみを倍増させてくれる。

旅の終わりは東金御殿跡の前にある八鶴湖。黄色く色付いた銀杏が綺麗だった~

平成28年11月21日

おまごバスの沖十文字バス停で下車したら県道289号を南下。
10分ほど歩くと「御成街道跡」(左)と記された表示が。風景谷の険から林の中へ入って消滅した御成街道がここで県道を斜めに横切っていたのだが今は全くの消滅状態。

この先二つ目の十字路を左に曲がり7~8分、墓地の前に御成街道跡と表示されているが ここが「旧道復活地点」(右)。 
ここから御成街道の旅 再スタート。

すぐに下り坂となりその先は上り坂。この坂を「蛇田谷の険」(左)と呼んでいる。この坂には家康に係わる伝説が。
家康一行がこの近くで昼食をしてたところ女中が誤って杓子を川に落としてしまった。その杓子は角谷の川岸に流れ着き根付いて大樹になったという。その大樹は「角谷の杓子神」と呼ばれていた。

蛇田谷の険を越え開けた場所に出ると右手の畑の端に「馬頭観世音」(右)が。銘を見ると昭和10年(1935)とある。

写真では分かり難いが再び急な下り上りの坂道となるが この辺りを「馬渡しの険」(左)と呼んでいる。
東金へ向かう家康があまりの急こう配のため籠から降りて馬に乗り換えた場所だとか。

その下り坂途中に「上砂一里塚」(右)が現存。御成街道8ヵ所の一里塚のうち現存する3ヶ所の内の一つ。前後の塚との距離は4.7km。

坂を上りきると広々とした畑地となり その向こうに横一線に木が繁っているが ここは「野馬土手跡」(左)。この先の小間子馬神社の創建百年記念碑に「野生の馬が生息していた」との記述がある。

この辺りは「太郎坊(たらんぼう)」と呼ぶ地名で古戦場跡。天正10年(1582)、攻め入ってきた椎崎城主・椎崎三郎軍を東金城主・酒井小太郎が防いだことから 太郎防 と呼ばれ 後に 太郎坊 になったという。

野馬土手跡の先で県道と交差するがその手前に「御成街道」(右)の説明板が。その先の十字路を左に曲がり寄り道を。

向かった先の「小間子馬神社」(右)は明治26年(1893)の創建。滋賀県大津の馬神(うまがみ)神社から分霊を勧請とのこと。正式名称は 小間子馬神社太郎防分霊 。

街道に戻り坂道を下った先の右側は「瓶盥(びんだらい)池」(右)。家康が東金の狩場へ向かう途中、この池のほとりで乱れた髪を洗い清めたことから瓶盥池と呼ばれたと伝わっている。

圏央道の下を通り「県道301号を横断」(左)するとその先は砂利道。数分歩くと僅かに左へ曲がっていく。
さらに4~5分歩くと国道409号にぶつかるが国道にぶつかったところで御成街道の新設部分は終わり。この先は既存の生活道路を整備して御成道に。

国道にぶつかって右に曲がり数分、ホテル脇の小さな祠の中に「球形道祖神」(右)が。かつて歩いた甲州街道栗原宿辺りで球形道祖神を多く見かけたがここにも在ったとは。

さらに数分、立派な門柱の立つ「旧家」(左)がある。旧旅籠長南屋はここかと思ったらその手前でした。丁字路際の広場が旅籠長南屋跡だったのですが旧家に目を奪われ写真の撮り忘れ。

東金高等技術専門学校前を通り過ぎると車道は左へ曲がっていくが ここは「御成街道 表道と裏道の分岐点」(右)。
表道は真っ直ぐ進み、裏道は左へ曲がる県道だが今は裏道の方が立派。表裏が逆転してしまった。ここには「東金御成街道の関係史跡」と題された解説板が設置されている。

表道入口の小さな祠の中に「道祖神道標」(左)が一体。解説板には道祖神と記されているが見た目は地蔵尊。正面に刻まれた道筋は「是より下ハ東金道 是より上ハ左倉(佐倉)道」。

表道に入り旧蚕業センター脇を通っていくと「御成街道 おあし坂」と記された案内板があるが通り過ぎてちょっとそこまで寄り道を。小さな祠の中に馬に乗った石仏が? これまで見たことが無い石仏が鎮座しているではないか。これは「将軍地蔵」(右)でした。 馬に乗った将軍地蔵が結構多い。

「おあし坂入口」(左)まで戻り薄暗い下り坂に入って行くことに。落ち葉を踏みしめながら歩く古道は情緒たっぷりだ。
「おあし坂」(右)は200mほどの急な下り坂だが長い間使われることが無かったため荒れ放題だった。近年、御成街道保存会の皆さんが手入れをしてくれたおかげで復活した古道である。

おあし坂を下ったところにある解説板に「急な傾斜道であるため、上り下りとも歩幅を広く取り大足で歩かなければならないことから この名がついた」 とある。

おあし坂を下ったら左へ曲がり その先は山裾を歩くのだが目の前に広がる「里山」(左)の風景がなんとも懐かしい。

4~5分歩くと「御成街道 一本松跡」(右)と記された案内板が建てられている。1970年代ごろまでは高さ2mほどの塚があり松が植えられ地元の人たちは「一本松」・「一里塚」と呼んでいた。

この先も山裾の鄙びた道を歩き国道126号にぶつかったらちょっと寄り道を。

向かった先は「雄蛇ケ池」(左)。慶長19年(1614)、この地の代官島田伊伯がつくった灌漑用貯水池で周囲4.5kmという大きな池。湖上に二つの半島が突出し形が秋田の十和田湖に似ていることから「房総の十和田湖」の別称がある。

国道まで戻りしばらく歩くと御成街道旧道に入れる。
旧道を20分ほど歩いたら羽黒山妙福寺の表示があったのでちょっと寄り道を。端正な姿の「本堂」(右)は文政10年(1827)の建立。平成21年(2009)に大修理が完了し建立当時の姿を再び取り戻したという。

妙福寺の裏山から本漸寺西側にかけての一帯は東金城があった場所。大永元年(1521)に酒井小太郎定隆によって築かれ五代に渡って酒井氏の居城となっていた。
酒井小太郎は「太郎坊(たらんぼう)」の地名由来となった人物。

街道に戻り4~5分、左奥の「火正神社」(左)は代々東金を治めていた板倉家の四代重寛公によって元禄11年(1671)に創建。社殿内の本殿はその時に建立されたものだが見ることはできない。

火正神社の裏手が東金御殿があった場所。
神社入口に「御成橋碑」(右)が建てられており その先の奥まった場所の石碑は「東金御殿表門跡碑」(右)。
ここから御殿跡に入ることはできない。

数分先を左に入った奥の「東金高校」(左)の敷地が東金御殿跡説明板によると鷹狩りを行う将軍の宿泊施設として慶長18年(1613)から翌年にかけて造営。しかし寛文11年(1671)には取り壊されたとある。

その先の「本漸(ほんぜん)寺」(右)は鎌倉時代に創建された古刹。酒井氏が日親を開山として現在地に移したもの。境内に大檀那酒井氏一族の供養塔があったのだが写真を撮り忘れたのが残念。

駿府城址に「家康公お手植えのミカン」があったが、ここにも徳川家康公お手植え蜜柑がある。ただしこちらは四代目。

本漸寺の山門を出ると目の前は「八鶴湖」(左)。
東金御殿築造の際、もともとあった「とき池」を拡張したもので御殿池、八鶴池(やつるいけ)などと呼ばれていた。天保12年(1841)、詩人遠山雲如がこの地を訪れ池の形が鶴に似ていることから八鶴湖と名付けたという。
銀杏の色付きがあまりに見事だったので思わず1枚。

湖畔の「八鶴亭」(右)は明治18年(1885)創業で伊東左千夫や北原白秋など多くの文人墨客が訪れた老舗旅館。建物は大正から昭和初期にかけて建てられたもので国登録有形文化財。

ここまで来たのでもう一カ所寄り道を。向かった先は「最福寺」(左)。
寺伝によれば大同2年(807)、僧最澄の創建と伝えられる古刹。本堂は元禄16年(1703)に八鶴湖畔にあったものを現在地へ移設。その時使われた本堂の丸柱は江戸・浅草寺から譲り受けたものだとか。

本堂の右手方向に「切られ与三郎の墓」(右)がある。といっても切られ与三郎は鶴屋南北の門下、瀬川如皐が書き上げた歌舞伎狂言の人物。ところがその人物のモデルとなったのが東金の吉村伊三郎。この墓は伊三郎の墓であった。

3回に分けて歩いた東金御成街道の旅が終了。定規で線を引いたように真っ直ぐな街道だったが、あちらこちらで江戸時代の息吹を感じることができる街道歩きでした。

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