表紙へ戻る  
街道松 東海道五十三次道中記 街道松

(11) 三島宿 樹齢1200年の金木犀、その芳香は10km先まで及ぶそうだ。  街道地図
東海道と下田街道・甲州道が交差する交通の要所として、また三島明神(三嶋大社)の門前町として栄えていた三島宿。
その後、東海道五十三次が制定されると箱根越えの前に一泊する宿場として一層にぎわっていった。
ここは富士山の湧水が豊富なことでも有名な地である。

 平成17年12月14日

 箱根西坂を下って大場川に架かる 新町橋 を渡るといよいよ「三島宿」。 出会う人が急に多くなってきた。三嶋大社も近い。

三嶋大社若山牧水歌碑「三嶋大社」(左)の鳥居をくぐると厳かな気持ちになってくるから不思議だなー。
創建時期は不明だ。伊豆に流された源頼朝が深く崇敬し源氏再興の旗揚げをした日が三嶋大社例大祭の日であった。

鳥居をくぐり境内に入ると右手の池畔に建てられているのは「若山牧水歌碑」(右)。
   のずゑなる 三島のまちのあげ花火 月夜のそらに 散りて消ゆなり

神門源頼朝・北条政子の腰掛石総門を潜った先に見える「神門」(左)は慶応3年(1867)に再建された総欅の唐破風造り。欄間の彫刻が見事。

神門をくぐらず右手に移動すると、そこにあるのは源頼朝・北条政子が腰かけたという「腰掛石」(右)。治承4年(1180)、源頼朝が平家追討の心願を込めて百日参りをした折、政子とともに腰かけて休息したと伝えられる。頼朝と政子は仲が良かったんだね~

舞殿と拝殿樹齢1200年の金木犀神門の先は共に慶応2年(1866)建築の「舞殿と拝殿」(左)。拝殿は国指定の重要文化財。拝殿の奥に見える重要文化財の本殿が素晴らしい。高さ16メートルという大きさは出雲大社とともに国内最大級。

最大級といえば天然記念物に指定されている「樹齢1200年の金木犀」(右)。十月上旬に満開となるが その馥郁とした香りは10km先にも及ぶという。

問屋場址碑三島宿樋口本陣址碑三嶋大社を出て先へ行くと郵便局の前に名所案内パネルが。ここは問屋場跡と表示されているが石碑があるはず。局舎横に「問屋場址」(左)と刻まれた高さ50センチほどの石碑がひっそりと立っていました。

「樋口本陣址碑」(右)が本町交差点を渡ったお茶屋の横に立っている。右側に渡って世古本陣跡碑を探したが、無い。探しても無い!お茶屋さんに訪ねたところ撤去してしまったとのこと。


時の鐘芭蕉翁の墓樋口本陣跡碑から数分先、源兵衛橋を渡った左奥の三石神社「時の鐘」(左)が。神社に鐘楼。まあいいか。午後5時55分までに鐘楼前に集まると鐘を突かせてくれるのだとか。

道路反対側の奥、連馨寺境内に「芭蕉翁の墓」(右)がある。えっそんなバカな。芭蕉の墓は大津市の義仲寺。ここは墓というより供養碑と見るべきだろう。
墓石の側面は句碑となっており、刻まれている句は 
   いさともに 穂麦くらわん 草枕

楽寿園小浜池と楽寿館三島に来たらぜひ見ておこうと寄ったのが「楽寿園」(左)。入り口のモミジが真っ赤に色付いて見事。あまりの綺麗さに地元のカメラマン10人ほどがカメラを向けていた。なんと、ほとんどが年配の女性。女性は元気だ。

この庭園は明治23年(1890)に小松宮章仁親王の別邸として造営された名園で、昭和29年(1954)に天然記念物に。その「小浜池」(右)に全く水が無い。滾々と湧き出る水があっての小浜池。どうしたことか。


千貫樋秋葉常夜灯気を取り直して本町交差点から右折。今はなき世古本陣跡碑の前を通り三島広小路から左の旧東海道を。10分ほど先で道路右側に「千貫樋」(左)の説明板を発見。諸説ある千貫という名前の川だが今は普通の川。

千貫樋のすぐ先右側に立つのは弘化3年(1846)建立の「秋葉常夜灯」(左)。遠州地方で多く見られる常夜灯であるが ついに出てきたか。

宝地寺一里塚玉井寺一里塚十数分歩くと道路左側に見事に整備された「宝地寺一里塚」(左)。右側に樹木に覆われた「玉井寺一里塚」(右)。 この一里塚はそれぞれが宝池寺及び玉井寺前にあるのでこう呼ばれている。一般的には伏見一里塚と言われ江戸から29番目の一里塚。

一里塚の先の広い交差点を渡ると再び旧東海道。 歩道が狭い割に車が多くちょっと怖い。

対面石松並木10分ほど歩いた先の八幡神社には「対面石」(左)なる2個の大石がある。治承4年(1180)、平家の軍勢が富士川まで押し寄せてきた時、源頼朝がこの辺りまで出陣。奥州から駆けつけた弟の義経と対面し二人が座った石だそうだ。どっちに誰が座ったか分かるともっとリアリティがあるのになー。

八幡神社を出ると「松並木」(右)が待っている。やはり松並木はいいなー。と思ったら100mで終わり。残念!

前の街道箱根西坂宿へ    次の宿場沼津宿へ    表紙へ戻る