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街道松 東海道五十三次道中記 街道松

(12) 沼津宿 「千本松原」の松の木、千本どころか百万本も在りそう  街道地図
沼津は三枚橋城の城下町として栄えていたが江戸初期に城を廃棄。後に水野出羽守忠友が跡地に規模は小さいが
沼津城を築造。残念ながら大火や戦災で当時の面影は失われてしまったが、右へ曲がり、左へ曲がるという当時の
街道を探すことはできる。

平成17年12月14日
亀鶴姫の碑沼津藩領境榜示杭黄瀬川を渡ると沼津領。相変わらず狭い歩道を歩くこと7~8分、潮音禅寺の山門が見えた。山門を入ると正面に「亀鶴姫の碑」(左)がある。(注:鶴亀ではない)

駿河の3美人と言われた亀鶴姫。源頼朝に見初められるも応ぜず黄瀬川に身を沈む。時は建久4年(1193) 18歳の若さ。後に亀鶴潮音寺が建立され幾多を経て 残るは亀鶴姫の碑とその言い伝え。800年もの長い間語り伝えられるとは幸せな、いや悲しい話。

この先に従是西沼津領とだけ刻まれた「沼津藩領境榜示杭」(右)が設置されている。


榜示杭の先で県道に合流。10分ほど歩いて再び左の旧街道へ入って行く。ここは狩野川堤防下の道路で人通りが少なく静かな道。橋の下辺りの左側に「平作地蔵」(左下)の小さな御堂が。

平作地蔵堂玉砥石口の堅い旅人から仇の行方を聞き出すために自害までした平作爺さん。仇の居場所を聞き出した娘婿が本懐を遂げる。 平作爺さんの義侠心に心を打たれた 後の人が碑と地蔵尊を建立して弔ったとか。

平作地蔵から少し歩くと公園奥に小さな小さな日枝一里塚が。
一里塚の手前に立っている高さ1mほどの石は「玉砥石」(右)。1200~1300年前に 玉を磨くために使ったということだが気が遠くなるほど昔の石だ。


旧東海道川廓通り沼津宿碑再び県道に合流して十数分、左に入る道の入り口に建てられた石柱に刻まれた文字は「旧東海道川廓通り」(左)。沼津城の城郭に接した道で 川曲輪 とも記されたように、いわゆる廓があった場所ではない

川廓通りを出ると県道に合流。
この先は城下町特有の曲がりくねった街道。合流したら左に曲がり御成橋通りを右に曲がる。次に銀行の先を左に曲がり、永大橋通りに出たら右に曲がるという複雑な道筋。


乗運寺若山牧水之墓永大橋通りを右に曲がると最初の交差点向こう側に見えるのは「乗運寺」(左)。手入れの行き届いたきれいな寺で、 山門を入った境内も見事に手入れされている。こんな素晴らしい庭を無料で拝観できるとは幸せな。

乗運寺は若山牧水の菩提寺。山門を入った右手の一段高いところにある墓石は「若山牧水之墓」(右)。
千本浜公園には牧水の歌碑も有るというので ぜひ行かなければ。


千本浜公園若山牧水歌碑乗運寺前の道を右に進むと「千本浜公園」(左)。いやー見事。木漏れ日が気持ち良い。堤に上り海岸線を見ると はるか彼方まで松林が続いており千本なんぞというケチな数ではない。それこそ百万本もありそう。

松林の中にありました「若山牧水歌碑」(右)が。
   幾山河 こえさりゆかば寂しさの はてなむ國ぞけふも旅ゆく 
漂白の歌人 と言われた牧水さんですが沼津が大変気にいったようで この他にも沢山の歌碑があるが碑ばかり見ていると日が暮れるので松林を後に。


出口町見附外の表示西側の榜示杭旧東海道に戻り7~8分歩くと右側の歩道に「出口町見附外の表示」(左)がある。町名の由来などが簡単に記されているがそれによると沼津宿の出口であること、しかも見附の外だから出口町見附外。

さらに10数分歩くと八幡神社の前に従是東と刻まれた「西側の榜示杭」(右)が建てられている。残念ながら沼津領と刻まれた下半分が明治時代に折られて無くなってしまったそうだが、ここから東が沼津藩領ということだ。


沼津藩領を抜けたので次に目指すは原宿。 かなり長距離のてくてく旅になりそう。

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