| (14) 吉原宿 見えましたよ!左富士が。まさに左側に。 街道地図 |
吉原宿は最初は海岸に近い場所であったが津波で2度も流されたため現在の位置に移されている。このことが影響して
間宿である岩淵の方が栄えてしまった時期があった。 宿場の中心は現在の吉原商店街辺りだが吉原宿という標柱が
1本立っているだけで、ちょっとそっけない感じがしないでもない。 |
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 富士市に入ると富士山がますます大きい。まもなく県道に合流するが空は真っ青だし霞も出ていない。左富士が見られるだろう。
県道に合流して4〜5分歩くと右側に「六王子神社」(左)。ここには悲しい伝説がある。
京都へ向かう巫女7人。このうちの一人「おあじ」が龍の生贄に選ばれてしまった。仲間の六人は悲しみのあまり浮島沼へ身を投げてしまった。
村人がこの神社に弔ったそうだ。
六王子神社のすぐ先の信号を右に曲がると「東田子の浦駅」(右)の後ろに富士山が見える。富士山はいつ見てもいいなー。信号向こう側の酒屋さんの脇を入って行くと延命地蔵尊の御堂がある。
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| 信号の先、左側を5分ほど歩くと間宿・柏原本陣跡と記された標柱が道路際に立っているが その右前方に見えたのは立派な山門。 |
 立円寺の山門を入ると目に入ったのは文化5年(1808)建立の「望嶽碑」(左)。尾張藩の藩医柴田景浩が立円寺に滞在したおり、富士の絶景に感嘆し思わず碑を建立してしまったのだとか。
隣に置かれた構造物は台風で遭遇した「ゲラテック号のイカリ」(右)です。説明碑によると、昭和54年(1979)年10月、台風20号に遭遇したゲラテック号(6320トン)は垂直になったまま立円寺南方の柏原海岸に打ち上げられたという。 |
 街道を歩きながら、ふっと右の路地奥を見ると「賽神(道祖神)」(右)が。近づいて見ると男女二人。思わず一枚。
広沼橋の下を流れる川は「昭和放水路」(左)。度重なる水害から村民を守るため原宿の増田平四郎なる人物が大規模な排水路を完成させたのが明治2年(1869)。ところがその年8月の高波で跡形もなく壊されてしまい平四郎の計画はあえなく頓挫。時が移り昭和18年(1943)、昭和放水路が出来た場所が平四郎の排水路と同じ場所であった。
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 橋を渡ると江戸から33番目の沼田新田一里塚があったことを示す標柱が建てられている。その横を左へ曲がると見えたのは「増田平四郎石像」(右)。説明板に、平四郎は韮山代官所へ工事の許可願いを出すこと12回、勘定奉行へ籠訴(かごそ)すること六度に及んでようやく工事の運びとなった、とある。江戸時代の役人は何を恐れていたのだろうか。
岐阜の三好様から沼田新田一里塚跡の情報を頂きましたので追記いたします。
昭和放水路に架かる広沼橋を渡って50〜60メートル程歩いた左側に「旧東海道一里塚」(左)と刻まれた石碑が設置されていました。ここは沼田新田一里塚があった場所。設置した当時の写真を見ると自然石に囲まれ見ごたえのある一里塚碑でしたが、最近は雑草に覆われかろうじて石碑が見える状態です。
写真は岐阜の三好様から提供していただきました。
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 20分ほど歩くと県道は大きく右にカーブ。「旧東海道順路」(左)の親切な標識に従って左の道に入ると とたんに車が少なく静かに。途中、庚申堂などを見ながらてくてくと。
さらに先へ行くと民家と民家の間の植え込みにあったのは「天文堀碑」(右)。高橋勇吉なる人物が洪水対策として14年の歳月を費やし嘉永3年(1850)に完成させたもの。勇吉が天文の知識に優れていたことから天文堀と。
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 この辺りから赤白の煙突が見えてくるがこれは「製紙工場の煙突」(左)。青い空に赤白模様と真っ白な煙が絵になるがこれは煙?水蒸気?
先ほどから看板があった毘沙門天(妙法寺)の参道が見えたので階段を上ってみた。びっくりしたのは「大香炉」(右)。この派手さは半端じゃない。毘沙門天を出てしばらく歩き、右に折れ東海道線の踏切を渡るといよいよ左富士が近い。
河合橋 を渡ると今まで右に見えていた富士山が正面に。国道1号を越えると道路が右にカーブ。期待出来そう。
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 岐阜の三好様から依田橋一里塚の情報をいただきましたので追記いたします。
場所は国道1号を横断して7〜8分、富士山が左に見え始めたころの左側、左富士神社境内に「依田橋一里塚跡碑」(左)が建てられています。石碑には「吉原宿 依田橋村一里塚 日本橋より三十四番目」と刻まれている。
境内の一角を整備して「依田橋一里塚跡」(右)としていますが、ここに小さな小さな一里塚が造られているのが嬉しいですね。
左右の写真は三好様から提供していただきました。
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 左富士神社先の交差点まで来るとまさに「左富士」(左)。残念なのは真っ赤な看板やら電線が邪魔をして見事な富士山というわけにはいかない。 コメント:真っ赤な看板は無くなりました。
交差点際に「左富士の碑」(右)と松が1本。碑には広重の「五十三次 吉原左富士」(右)が彫られており当時と今が比較できるのが嬉しい。藤沢宿先の南湖の左富士は見られなかったが、今日はきれいに見えたので満足、満足。
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 ほどなく道が大きく左にカーブするため富士山は徐々に右側に移ってしまう。
平家越橋の袂に「平家越碑」(左)と東海道道標がある。時は治承4年(1180)、川原に源・平の両軍が対峙。夜半、源氏の軍が動くと水鳥が一斉に飛び立った。 これに驚いた平家軍は我先に遁走。源平富士川の合戦が行われた場所がこの辺りだと云われている。
平家越橋を渡り函南鉄道の踏切を越えると吉原商店街。この辺りが吉原宿の中心で本陣などがあった場所だが それらしい表示等は無い。銀行横に「吉原宿」(右)と記された道標が立っているのみ。
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銀行横の道標に従って左に曲がり橋の手前まで来ると西木戸跡の標柱が立っているが、ここまでが吉原宿内。
この先は国道の大きな交差点で旧街道が分断されてしまうが斜め向こう側の細い道が旧東海道。 |

旧東海道から一旦県道に出た後、案内板に従って再び旧道に入り富安橋を渡って行く。しばらく歩くと民家の塀に囲まれてお座りになっているのは「賽神」(左)。ちょっとふてくされた顔に見えるが毎日座ってばかりいるので飽きてしまったのかな。
交差点を越えて県総合庁舎前に来ると「本市場 間宿碑」(右)が建てられている。その少し先に鶴芝の碑。富士山中腹の雪景色が鶴に見えたそうだが、では芝は何?説明板にはこの事は触れてなかった。
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 県道を横断した道を入って行くとお花畑の端にあった小さな石碑に 刻まれてる文字は「旧東海道一里塚」(左)。ここは江戸から35番目の本市場一里塚。日本橋から約140km。まだまだ京都は遠い。
富士本町通りという商店街を越えて道祖神がある交差点を左に曲がって寄り道を。三つ目の交差点を曲がった先の公園(現・富士市交流プラザ)にあるのは「芭蕉句碑」(右)。
ひと尾根は しぐるる雲か 不二の雪 芭蕉
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| 旧東海道に戻り静かな街道を歩いていると札の辻跡と刻まれた石碑が。ここは高札場があった場所。この先の県道と合流した右側の天白神社の境内には男女が寄り添う道祖神があった。この辺りで男女寄り添った道祖神は珍しい。 |
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 身延線のガード下を通り五差路の交差点を通り過ぎると右へ入る細い道があるが、その入り口の「秋葉常夜灯と東海道道標」(左)を見ながら入って行く道が旧東海道。
街道の途中で右に曲がり、土手を上った場所が「雁(かりがね)堤」(右)。この堤は富士川治水のために築かれたもので完成まで50年を要して延宝2年(1674)に完成したという巨大なもの。堤の形が雁が連なって飛ぶ様子に似ているので雁堤と呼ばれたらしい。あまり大きすぎて写真に入りきらない。
堤の一角に由来を記したパネルや歌碑などがあり、その一段下がった護所神社には悲しい歴史が。堤を流出の惨害から護るため千人目の旅人を人柱にすると決め旅僧が人柱になったという。護所神社には僧の霊が祀られているが なんとも酷く悲しい話である
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 旧街道から県道に合流するとまもなく緑色の「富士川橋」(左)が見えてくる。昔懐かしい造りの鉄橋で右側に併設されているのは歩道橋。
橋の手前右側に松岡水神社の鳥居があり階段を上ると水神社にたどり着く。ここは渡船場があった場所で階段手前の石碑は「渡船場跡碑」(右)。またその右には富士山道の道標も。
いやーこの区間は長かった。片側だけ間宿を持つ宿場はあったが、前後に間宿がある宿場は初めてだ。 さあ、富士川を渡るとするか。
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