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街道松 東海道五十三次道中記
街道松
(30) 舞坂宿  あっという間に通り過ぎた舞阪宿でした   街道地図
舞坂宿は浜名湖の今切渡し渡船場を前にした宿場であった。
見付石垣や北雁木を復元するなど旅人を楽しませてくれるが、舞坂宿手前の松並木と、脇本陣茗荷屋が
当時をたっぷり堪能させてくれる。

 平成18年2月9日
松並木舞阪宿側から見た松並木見事な「松並木」(左)が現れた。道路の行き先表示も 旧東海道松並木。夢舞台道標も東海道松並木。いままで多くの松並木を見てきたが、ここは両側で本数も多く見事。しかも車があまり通らないので松並木の風情をたっぷり堪能。

舞坂宿碑松並木に入ると中程の右側に「舞坂宿碑」(左)がドンと構えている。 ところで松の木をよく見ると それぞれは傾いたり曲がたりと大変個性的。しかし全体では整然とした絶妙なバランス。

東海道五十三次絵碑浪小僧像松並木の左歩道側に「東海道五十三次絵碑」(左)が並んでいる。また右側には十二支の石像が置かれている。どっちを見ながら歩こうかと迷うが車が少ないので行ったり来たりだ。

松並木が終わった所の休憩所に居たのは「浪小僧」(右)。遠州七不思議の一つ浪小僧伝説に登場する小僧で、海が荒れる時や風が強くなる時は海の中から太鼓を叩いて知らせてくれるのだとか。
  


見付石垣秋葉常夜灯休憩所先の国道1号を斜めに横切る道が旧東海道。国道を横断すると「見付石垣」(左)があるが、この石垣は江戸時代中頃に作られたもの。ここから先が舞坂の宿内。

ちょっと歩いた先の公園に設置されているのは「秋葉常夜灯」(右)。江戸時代の舞坂宿はたびたび火災に見舞われたため火防せ信仰の秋葉常夜灯を設置したのだとか。宿内の常夜灯はこの新町の他に中町、西町にも。   


一里塚跡碑舞阪宿本陣跡碑秋葉常夜灯の奥には「一里塚跡碑」(左)もある。 江戸から68番目となる舞坂一里塚があった場所で、道路を挟んで反対側には東海道舞阪宿一里塚と刻まれた石碑も。

宿場の雰囲気(ちょっとだけ昔をイメージした作りの商店街)を楽しみながら10分ほど歩くと正面の彼方に浜名湖が見えてきた。薩埵峠で駿河湾を見て以来の久しぶりの海だ。
右側の駐車場入り口には「舞阪宿本陣跡碑」(右)が建てられている。


舞阪宿脇本陣茗荷屋上段の間本陣跡碑の斜め前の建物は「脇本陣茗荷屋」(左)。この建物は天保9年(1838)に建設されたものを修復。見学させてもらえるので ぜひ見ておきたい。

玄関を入ると かなたに「上段の間」(右)、さらに裏庭と見通せる。受付の女性に声をかけたところ、どうぞゆっくり見ていって。さすが大名が泊まる宿は違う。風呂桶は漆塗り。ひょっとしてトイレも漆?見ると大小、両方とも漆塗り。うーん、なんだか痒くなりそう。


北雁木碑弁天橋脇本陣を出ると突き当たりが浜名湖で、本雁木と呼ばれた船着場跡がある。舞阪には南雁木、本雁木、北雁木の3ヶ所の船着き場があったが、その内、復元されたのが「北雁木」(左)。北雁木は大名用で、本雁木は武家用、庶民と荷物は南雁木だった。

本雁木の前を右に曲がると北雁木。北雁木の200mほど先に「弁天橋」(右)がある。橋の上は浜名湖から吹きつける風がめっぽう強い。立ち止まって写真を撮ろうとすると身体がフラツクほど。


 あっという間に通り過ぎた舞坂宿であったが、松並木があり、一里塚跡があり、脇本陣もありと、江戸時代を感じることができる宿場であった。

弁天神社弁天橋を渡ると鎮座していたのは「弁天神社」(左)。この神社に天女に関係する面白い話が伝えられている。
昔この辺りは白砂青松の美しい場所であった。その美しさに誘われて ある日天女が舞い降りてきたという。 ところが、何がお気に召さなかったのか駿河の美保の松原に立ち去ってしまったのだとか。  残念。

後年、渡し船の安全を願って弁天神社が建てられたが天女伝説のこともあり、地元の人々は今日まで神社を大切にしてきたのだそうだ。


正岡子規句碑種田山頭火句碑弁天神社境内には正岡子規・茅原崋山・松島十湖の三つの文学碑がある。
「正岡子規句碑」(左)  天の川 濱名の橋の 十文字

弁天神社を出て国道1号に合流するとJR弁天島駅へ通じる地下道があるが、そこには入らずその先を左に入り浜名湖畔までくると「種田山頭火句碑」(右)がある。
 春の海の どこからともなく 漕いでくる 
もう少し暖かくなるとそんな気分にもなりそうかな。
 


 江戸時代は浜名湖を渡し船で渡り 新居関 で厳しい取り締まりを受けるわけであるが、今は中浜名橋、西浜名橋の歩行者専用橋を渡って新居関へ。
  コメント:江戸時代は舞坂であったが、現在は舞阪に変わっている。

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