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街道松 東海道五十三次道中記 街道松
(32) 白須賀宿 格子戸の古民家を堪能した宿場でした  街道地図
白須賀宿は遠江国の一番西端にある宿場で、その先は三河国。当初は潮見坂下にあった宿場であるが
宝永4年
(1707)の津波で壊滅的な打撃を受けてしまったため現在地の潮見坂上に移動。
今でも格子戸のある古民家が多く、江戸時代の雰囲気をたっぷり
味わうことができる。

 平成18年3月2日

白須賀宿マップ高札場跡碑と一里塚跡碑白須賀で最初に出迎えてくれるのが「白須賀宿マップ」(左)。これから歩こうとする場所までの距離と時間が入った絵地図なので しばし眺め頭の中にたたき込んだが1分も歩くともう思い出せないんだ。 

白須賀宿マップから15分、民家前に並んでいるのは「高札場跡碑と一里塚跡碑」(右)。この一里塚は江戸から70番目の白須賀一里塚。ということは日本橋から280km。いやーよく歩いたものだ。



潮見観音夢舞台道標一里塚跡碑前から10分ほど歩き右へ曲がった突き当りの蔵法寺に「潮見観音」(左)という ありがたーい観音様が祀られている。遠州灘を行き交う船は必ず帆を下げ観音様の名前を念じて通り過ぎることになっていたという。

再び街道に戻り数分歩くと道が二手に分かれる。「夢舞台道標」「左新道・右旧道」(右)と刻まれた石の道標が立っているので、ここは迷わず右に入り潮見坂を上っていく。


潮見坂おんやど白須賀「潮見坂」(左)は街道一の景勝地として、また西国から江戸に向かうとき初めて太平洋が見える場所として旅人の詩情をくすぐった坂。そう言われて坂の途中で何度も振り返ったが左写真のごとく木の間にちらっと遠州灘が見えるだけ。 あの樹が無ければ遠州灘が一望なんだがなー。

坂を上り切ると「おんやど白須賀」(右)という休憩所。湯茶の接待があるので上り坂の疲れをとるには丁度良い。白須賀宿のパンフレット、散策マップなども入手できる。


多数の石碑潮見坂公園碑おんやど白須賀を出ると「多数の石碑」(左)が並んでいるが散策マップにある石碑群とは違うようだ。 実はこの先に石碑群と言われている場所があるのだが白須賀宿の人は石碑が好きなようですよ。

2〜3分歩くと左側に「潮見坂公園碑」(右)が建てられているが、ここが石碑群の場所。明治天皇聖跡碑ほか多数の石碑がある。ここは織田信長が武田勝頼を滅ぼして尾張に帰るとき徳川家康が信長をもてなした場所。大正時代に公園として整備されたが現在は学校が建ち碑だけが残されてしまった。


格子戸のある古民家曲尺手十数分歩くといよいよ「格子戸のある古民家」(左)が並ぶ かつての宿場街に入って行く。ここでは当たり前に格子戸の家が並んでおり たっぷり堪能することができるので ゆっくり、のんびり歩くにかぎる。

しばらく歩くと「曲尺手」(右)が現れる。枡形とも呼ばれているが、軍事上の目的以外に大名同士のすれ違い防止にも利用されてきたようだ。格の低い大名が相手に見られる前に近くの寺で休憩を装いやり過ごす、という便利な場所でもあったのだ。


白須賀宿本陣跡碑白須賀宿脇本陣跡碑曲尺手から数分先右手の石碑は「本陣跡碑」(左)。
説明板によると本陣を務めていた大村庄左エ門宅の建坪は183坪、畳部屋231畳、板敷き51畳とある。 いやー広いなー。

その先の石碑は「脇本陣跡碑」(左)。 

 


夏目甕麿(みかまろ)邸跡・加納諸平誕生地碑火防樹脇本陣跡碑先の交差点向こう側に国学者・歌人として国学の普及に努めた「夏目甕麿(みかまろ)邸跡・加納諸平誕生地碑」(左)が塀の一角に立っている。

5〜6分ほど歩くと「火防樹」(右)が道の両側に4本ずつ。
宿場が山の上に移り津波の心配が無くなったと思ったら、今度は強い西風のため火が出ると大火になりやすい。新たな悩みだ。 せめて延焼防止を、と植えられたのが火防樹であった。

庚申堂高札建場跡碑火防樹の少し先右側に 「庚申堂」(左)があり 見ざる・言わざる・聞かざる の3猿が台の上に。右の見ざる は真っ黄色に塗られている。ちょっと趣味が悪いよ。それとも意味のある色なんだろうか。

古民家群を見ながら5〜6分、道路端側に「高札建場跡碑」(右)がひっそりと立っているが、可哀想なことにワンちゃんのトイレになっているようで下の方が黒く汚れている。愛犬家の皆さん、石碑をワンちゃんのトイレは御免だよ。


いよいよ愛知県この先で国道1号に合流すると「愛知県豊橋市」(左)。箱根西坂を下り三島宿を通って白須賀宿まで静岡県内22の宿場を歩いてきたが静岡は長かった。あと21宿歩くとその先が三条大橋だ。

国道1号に合流して二川(ふたがわ)宿までは約一里(4km)、地獄のウオーキング が待っている。

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