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街道松 東海道五十三次道中記 街道松
(39)池鯉鮒宿  女の情炎の恐ろしさ 「めったいくやしい」 と聞こえる火の玉が  街道地図
今は知立と書くが江戸時代は池鯉鮒と書いたこの宿場は、本陣・脇本陣各1軒、旅籠28軒と比較的小さな宿場であった。
しかし馬市や木綿市が開かれ、地方経済に対しては重要な位置を占める宿場でもあった。

 平成18年3月18日
安城市から知立市に入り最初の江戸時代の遺構八橋への道標(元禄の道標)を見たら ちょっと寄り道をしたくなった。

在原業平の和歌芭蕉句H 東海道から右に折れ10分ほど歩くと杜若(かきつばた)で有名な無量寿寺に到着。伊勢物語の主人公である在原業平が八橋でみた杜若があまりに美しかったので都に残した妻を思い
かきつばた の5文字を折り込んで詠っている。
 らころも つつなれにし ましあれば るばるきぬる びをしぞおもふ

芭蕉さんも鳴海の俳人下郷知足の家に泊まったおりに杜若を一句。(右)
   かきつばた 我に発句の おもいあり   芭蕉
   麦穂なみよる 潤ひの里   知足


来迎寺一里塚(左)来迎寺一里塚(右))東海道に戻りしばらく歩くと「来迎寺一里塚」(左)が出迎えてくれる。この一里塚は左右とも当時の塚が現存。「右側の塚」(右)は公民館の裏側だが江戸時代の貴重な遺構といえるだろう。 

ところで一里塚には一般的に榎が植えられている。何故「榎」なのかであるが、徳川家康が一里塚構築を行った大久保長安に「塚にはええ木を植えよ」と言ったのをエノキ(榎)を植えよと聞き間違いしてしまったのだとか。


夫婦道祖神小林一茶句碑このあと20分ほどは坦々とした道が続き、高速道路下の歩道橋を渡ると松並木が続く。左側の松並木の中に可愛らしい「夫婦道祖神」(左)を発見。比較的新しい道祖神だが なんだか心が和む。

しばらく続く松並木には3基の句碑・歌碑がある。
最初の句碑は「小林一茶」(右) はつゆきや ちりうの市の 銭叺(ぜにかます) 


万葉歌碑馬市の跡碑少し先に並んでいるのは「万葉歌碑」(左)と「馬市の跡碑」(右)。

万葉歌碑
引馬野に にほふはりはら いりみだれ ころもにほはせ たびのしるしに  巻1 57

馬市の跡碑
かきつばた 名に八ツ橋の なつかしく 蝶つばめ 馬市たてし あととめて   麦人


東海道 池鯉鮒宿碑問屋場之跡碑松並木が終わったところで国道1号を地下道で横断。地下道から地上に出たところに建てられている比較的大きな石碑に刻まれた文字は「東海道 池鯉鮒宿」(左)。

名鉄の踏切を渡り小ぶりの常夜灯を眺めて繁華街の五差路に到着。今まで歩いてきた道の延長となる真っ直ぐ先が旧東海道。狭い道の先に建てられているのは「池鯉鮒宿問屋場之跡碑」(右)。


池鯉鮒宿本陣跡碑池鯉鮒宿脇本陣玄関池鯉鮒宿の本陣は街道から外れた場所にあるので要注意だ。問屋場跡碑の先を知立セントピアに沿って左に曲がり次の交差点を右に曲がって行く。広場の端に「本陣跡碑」(左)と明治天皇行在所聖蹟碑・秋葉常夜灯がまとまっている。

脇本陣はもっと離れた知立駅近くの小松寺境内に「玄関」(右)だけが残され今は地蔵堂として使われている。脇本陣は本陣の前にあったが明治3年(1870)に脇本陣が廃止されたとき玄関を小松寺に移設。
 
コメント:小松寺は駅前再開発により北1.5kmに移転しました。


 ここから平成18年4月6日
 本陣跡碑先の刈谷道交差点を右に曲がり40〜50m歩くと池鯉鮒宿碑が立っており、ここから再び旧東海道。

知立古城址碑芭蕉句碑本陣跡碑先の刈谷道交差点を右に曲がり40〜50m歩くと池鯉鮒宿碑が立っており、ここから再び旧東海道。

宿場碑の少し先にどーんと立つ石柱は「知立古城址碑」(左)。刈谷城主水野忠重が整備した城だが元禄12年(1699)の大地震で倒壊。 目をひくのは碑の後ろにある 「この木なんの木 気になる木・・・・」 と見まがうほど大きな木。横の広がりが凄い。

国道を横断した先の知立公園に「芭蕉句碑」(右)があるのでちょっと寄り道を。
  不断堂川 池鯉鮒の宿農 木綿市    芭蕉翁
  ふだんたつ  ちりゅうのしゅくの  もめんいち


於萬の方(徳川秀康の生母)誕生地碑刈谷一里塚跡説明碑街道に戻ると右側の総持寺入り口に「於萬の方(徳川秀康の生母)誕生地碑」(左)が建てられている。が、碑の前に碑とは無関係なノボリが何本もあったため、うっかり見落して境内を懸命に探す羽目に。

総持寺を出たあとは逢妻橋を渡り国道1号に合流。しばらく歩くと歩道橋があるが、その下にひっそりと立つのは「刈谷一里塚跡説明碑」(右)。歩道橋を渡り旧道を通った後、再び国道に合流。旧東海道はその先で国道を横断して左側の旧道に入って行く。


中津藩士の墓めったいくやしいの墓しばらく歩くと洞隣寺という寺院があるが、説明板に珍しいお墓が有る、と。そのお墓は「中津藩士の墓」(左)。中津藩の家臣が帰国途中に突然 斬り合いとなり二人とも落命し洞隣寺に埋葬。恨みの強い二人、墓石が何度直しても傾いてしまうのだそうだ。

藩士の墓の隣にある墓が「めったいくやしいの墓」(右)。
洞隣寺の下働きであった娘さん、医王寺に移ったがそこの住職に一目惚れ。ところが相手にされずついに憤死。洞隣寺に葬ったが墓石から火の玉が出て 「めったいくやしい」 と叫んだとか。


洞隣寺の先右側の道端にひもかわうどん発祥地の碑がある。芋川うどん が東へ伝わって ひもかわうどん となったのだという。
このあと乗運寺の 樹齢850年の椎の木、富士松駅入り口の道祖神などを見て国道1号に合流。国道下の地下道を通って向こう側に渡り、再び旧東海道に入って行く。
その先の境橋を渡ると三河国から尾張国へ入るのだが、なんと、三河と尾張を繋ぐ境橋は膠(にかわ)で接着されている橋なのだとか。

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