(40) 鳴海宿 帰宅後、資料を調べまくった鳴海宿でした 街道地図 |
間宿である有松とは近い距離にある。有松絞りが有名になると鳴海宿でも生産・販売が行われるようになり、
有松とともに絞り染めで繁盛した宿場であった。 しかし今の鳴海は格子戸の家が所々に残る程度で当時の
面影は少なくなってしまった。 |
|
有松宿を出てかれこれ30分、交差点の向こうに「常夜灯」(左)が見えるがここは鳴海宿の東入り口。
常夜灯から5〜6分、植え込みの中に「飛脚と編み笠の女」(右)が刻まれた石碑が建てられている。なぜ飛脚? なぜ編み笠の女? 説明は無い。 でも編み笠の女の仕草 色ぽいな〜 |
「中島城址碑」(左)はちょっと見つけにくい。飛脚碑の先の中島橋手前を左に曲がり、次の橋の手前を左に曲がると民家の庭の中にある。ここは織田信長が今川義元の侵攻に備えて築いた砦の跡。
本町交差点を渡り右に曲がった先の誓願寺境内には芭蕉堂と「芭蕉供養塔」(右)がある。芭蕉が没した(元禄7年(1694)10月死去)翌月に建てられたもので芭蕉供養塔としては日本最古のもの。
コメント:誓願寺の先に高札場が復元されました。
|
誓願寺前の坂道を上ると、右側に「天神社」(左)があるが、ここは桶狭間の戦いで今川方の岡部元信が立てこもった鳴海城址であった。
入り口階段脇に建てられている石碑は「倭(日本)武尊御歌碑」(右)。
奈留美良乎 美也礼皮止保志 比多加知尓 己乃由不志保尓 和多良牟加毛
なるみらを みやればとほし ひたかちに このゆふしほに わたらへむかも
( 鳴海らを 見やれば遠し 火高地に この夕潮に 渡らへむかも )
鳴海潟の岸辺で詠まれたもの。
|
|
|
|
よき家や 雀喜ぶ 背戸の粟 |
京までは まだ中空や 雪の雲 |
杜若(かきつばた) われに発句の おもいあり |
街道に戻り次の丁字路を右に曲がってしばらく歩くと「鳴海宿西入り口常夜灯(左)があり ここまでが鳴海宿内。
常夜灯から数分、右側の斜面広場は「鉾(ほこ)の木貝塚」(右)。縄文時代前期の貝塚で、貝殻とともに縄文土器や深鉢型土器なども出土している。
コメント:本町交差点の先に本陣跡の説明板が設置されました。 |
貝塚の少し先の右側路地を入ると千鳥塚公園に行き着くが、公園入口の壁面に記されているのは芭蕉の句。
星崎の 闇を見よとや 啼く千鳥 芭蕉
公園の頂上近くに芭蕉の筆による「千鳥塚」(左)があるが、これは存命中の唯一の翁塚。
街道に戻り県道を横切って天白橋を渡ると横に長ーい東海道分間延絵図のプレートが。しばらく歩くと榎の大木を乗せた現存の「笠寺一里塚」(右)が迎えてくれる。 |
宮宿に行く前にもう1カ所寄りたい場所が白毫寺(びゃくごうじ)。笠寺観音を出た後、名鉄の踏切を渡ってすぐに右へ曲がり、道なりに15分ほど歩くと東海道・鎌倉街道と刻まれた道標が立っているが、ここを左に曲がると3〜4分で白毫寺に到着。 |
その昔はこの近くまで遠浅の海で年魚市潟(あゆちがた)と呼ばれていた。その年魚市が愛知の語源だと云われている。ここは年魚市潟を望める絶景の場所であったことから「年魚市潟景勝碑」(左)が建てられたが今は海は全く見えない。
年魚地潟を題材にした歌が万葉集に2首あるが、その1首が「万葉歌碑」(右)に。
年魚地潟 潮干にけらし 知多の浦に 朝漕ぐ舟も 沖に寄る見ゆ 巻7 1163
年魚地潟は潮が引いたようです。朝、知多の浦を漕いでいた舟も沖の方に云っているのが見えます。
いよいよ七里の渡しがある宮宿が近づいてきた。今は無き七里の渡しをどう越えて行くか。そろそろ考えなければ。
|
前の宿場有松宿へ 次の宿場宮宿へ 表紙へ戻る
|