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街道松 東海道五十三次道中記 街道松
(49)土山宿  「小雨にけむる土山宿」 だったらもっと良かったのに    街道地図
鈴鹿馬子唄で知られる土山宿は、宿駅制度制定前から伊勢参道・多賀大社参道として賑わっていたが、
49番目の宿場に制定されてからは一層の賑わいとなった。今でも当時の町並みが残っており、関宿ほど
ではないが往時の雰囲気を十分に味わうことが出来る。

 平成18年5月24日

境界石茶畑の間の東海道鈴鹿峠の薄暗い杉林を出るとパッと明るくなり茶畑が広がると近江の国。「境界石」(左)には「是より京まで十七里」とある。およそ68km。ついにここまで来たか。

「茶畑の間の東海道」(右)には東海道道標や現代的道標等が設置されており東海道を歩いているという実感があるが、それより薄暗い杉林から抜け出たことの開放感がなんとも心地よい。


万人講常夜灯馬子唄碑茶畑の間を数分歩くと休憩所に到着。ここには「万人講常夜灯」(左)がある。 旅を計画中に 鈴鹿峠のシンボル、高さ5.5mの巨大な常夜灯 と記された文を読んだときは「これは早く見たい」と思ったのだが ついに直接見ることに。 歩いてきて良かった!

この先は緩い坂道を下り 国道1号を地下道で右側に横断、西へ向かってしばらく歩く。一本松緑地を過ぎ、さらに歩くと右に入る道の先の公園に「馬子唄碑」(右)があり一節が刻まれている。
  坂は照るてる 鈴鹿はくもる あいの土山 雨が降る


馬子と馬の石像擽野(いちの)観音道道標

山中一里塚公園碑国道と分かれ旧東海道を10分程歩くと再び国道に合流。合流した先の公園に山中一里塚公園」(左)と刻まれた石碑が。公園ではなく一里塚だったらよかったのに。  

公園には「擽野(いちの)観音道道標」(右)が。その昔、擽野(いちの)村へ通じる山道があったが今は無くなり道標だけが残されたのだとか。隣には「馬子と馬の石像」(右)が。


 再び国道1号を西へ10分ほど歩き右へ下って行く道が旧東海道。その先は猪鼻の集落。

旅籠中屋跡旅籠中屋跡碑蟹坂古戦場跡碑集落の中程、民家の庭に「旅籠中屋跡」(左)と刻まれた石碑があり、その奥に見えるのは明治天皇聖蹟碑。お泊まりになったのだろうか。それとも休憩された場所だろうか。

またまた国道に戻り白川神社が見えたらその先を右に入って行く。
工場の間を抜けると道端に「蟹坂古戦場跡碑」(右)が。 北畠具教配下の軍と山中秀国軍がこの地で合戦。秀国軍が勝利を収めた戦いであった。


田村神社土山宿碑古戦場跡碑の前から田んぼの中の道を進むと田村川にぶつかる。
江戸時代は橋を渡って「田村神社」(左)の参道を通る道が東海道であった。今は橋が無いので国道に迂回するしかない。と思っていたら真新しい橋があるではないか。橋を渡って田村神社へ。昔と同じだ。
コメント:橋の手前に高札場が復元されました。 

田村神社の参道を歩き国道1号を渡ると目の前が道の駅で、その左側から 道の駅 の裏に回り込む道路が旧東海道。道の駅裏まで来ると土山宿案内板「土山宿碑」(右)が出迎えてくれる。


道標と地蔵堂上島鬼貫句碑しばらく歩くと、「道標と地蔵堂」(左)、その先に「上島鬼貫句碑」(右下)が。
道標には「従是 右京都へ十五里 江戸へ百十里」とある。十五里とは60km。京都が大分近づいた。合計125里ということは約500km。ちょっと変だが、まあいいか。

句碑には    吹け波(ば)ふけ 櫛を買いたり 秋乃風
上島鬼貫(おにつら)は大阪・伊丹生まれの俳人。東の芭蕉、西の鬼貫とも言われ独特の境地を開いた人で、東海道を旅の途中、土山に寄り、お六櫛を買い求めたときに読んだ句 。

土山一里塚跡碑来見(くるみ)橋10分ほど歩くと民家前に「東海道一里塚跡」(左)と刻まれた石碑が建てられているが、ここは土山一里塚跡

さらに10分ほど歩くと「来見(くるみ)橋」(右)に到着。
橋というよりは瓦葺き屋根の白壁といった感じで、なかなか素敵な造り。白壁には広重の「五十三次土山宿」の絵や「土山茶もみ唄」の歌詞が記されたパネルが貼り付けられており見ても楽しい。
  


旅籠跡碑土山宿脇本陣跡碑うかい屋来見橋の先が土山宿の旅籠街。早速「旅籠跡碑」(左)が。このあと「二階屋脇本陣跡碑」(左)を含めて次から次へと旅籠名の入った旅籠跡碑が続く。 

脇本陣跡の少し手前にある民芸茶房「うかい屋」(右)は築180年の古民家。店内には囲炉裏があるという ちょっと気になる茶房だ。


森鴎外来訪の地碑問屋場跡碑うかい屋の少し先、東海道伝馬館の玄関前に立つ石碑は「森鴎外来訪の地碑」(左)。土山宿と森鴎外とは意外な取り合わせであるが鴎外の祖父が旅の途中、土山で急死。その祖父の墓参のため訪れたもので後に遺言で祖母、母も葬られている。

東海道伝馬館から街道に戻った右側に「問屋場跡碑」(右)があるが土山宿にはもう一カ所問屋場があった。


旧問屋宅土山宿旧本陣「左写真の建物」も問屋場として使われた時期があった。

この辺りは古民家が点在。馬子唄に 「・・・あいの土山 雨が降る」 とあるが、小雨に煙る土山宿のしっとり濡れた古民家が見られたらいいのだが残念ながら今日はかんかん照り。

問屋場宅の隣が「旧本陣」(右)で現在も住居として使われている。説明書きでは、「三代将軍家光上洛の際設けられた」と記されているが現在の建物がそうであると記されてはいないのでいつ頃の建物であるかは分からない。


大黒屋本陣跡、問屋場跡、高札場跡しばらく歩き交差点を渡ると右側に「大黒屋本陣跡、問屋場跡、高札場跡」(左)の3本の石碑が建てられている。
ところで、本陣、脇本陣のどちらに泊まれるかは大名にとって大変重要なこと。なるべく大名同士の泊まりが重ならないように調整することが大変だったようですよ。

この後、国道1号を横断して再び旧街道を歩くわけであるが途中の現代的な道標に従って歩くと野洲川に行き当たり行き止まり。この道が旧東海道ではあるが行き止まりでは仕方ない。さきほどの現代的な道標まで戻るか。


歌声橋から見た野洲川市場一里塚跡碑気を取り直して一旦国道に戻りガソリンスタンドの先から左の道に入ると歌声橋という歌声喫茶のような名前の橋がある。この橋は「野洲川」(左)に架かっている橋だが、ここからの野洲川は深山幽谷とは言わないがそんな雰囲気が。

歌声橋を渡って かれこれ30分ほど歩いただろうか。民家の前に「一里塚跡碑」(右)建てられているが、ここは江戸から110番目の 市場一里塚 があった場所。 

 


今宿碑と常夜灯鴨長明歌碑大日川掘割碑・東海道反野畷碑を見た後、大野公民館に寄り道。正面玄関前にある石碑は「鴨長明歌碑」(左)。
街道右手に見える布引山は春夏秋冬それぞれに趣があり多くの旅人に詠まれてきた。水口宿の大岡寺で得度した鴨長明も布引山をこよなく愛した一人。  
あらしふく 雲のはたての ぬきうすみ むらぎぬ渡る 布引の山  鴨長明 

再び国道1号を横断。しばらく歩くと長かった土山宿も「今宿碑と常夜灯」(右)が見えたらやっと終わり。国道1号を横断すると出迎えてくれたのが水口宿の大きな縦長看板。

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