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街道松 東海道五十三次道中記 街道松
(50)水口宿  造り酒屋の店先がなんとも言えない良い雰囲    街道地図 
水口宿は古くは伊勢参宮道としてひらけ、後には水口城の城下町として栄えた宿場だが規模としては
本陣1軒、脇本陣1軒という小さな宿場であった。水口では江戸中期から伝わる水口曳山祭りが今でも
4月中旬に盛大に行われ近郷近在の見物客を集め大変な賑わい。

 平成18年5月24日

水口宿看板今郷一里塚跡今宿碑に見送られて国道1号を横断すると「水口宿看板」(左)が迎えてくれる。看板の横を進み右へ上がって行く道が旧東海道。どういうわけか分岐点に大きな信楽焼の狸が。

緩い坂道を上り しばらく歩くと「今郷一里塚跡」(右)。小さな塚を造り、木も植え一里塚碑も添えられている。


東海道松並木碑や常夜灯などを見て坂を下って行くと橋の向こうに見えるのは東屋の休憩所。

江戸口見付跡水口宿本陣跡海道松並木碑や常夜灯などを見て坂を下って行くと橋の向こうに見えるのは東屋の休憩所。その前を通って2〜3分歩いた先の坂を上った辺りが「江戸口見付跡」(左)。冠木門(かぶきもん)が設置されているのですぐ分かる。いよいよ水口宿に入るのだ。

見付前を通り 県道を横切り さらに数分、左側の竹垣に囲まれた路地があるが ここが「本陣跡」(右)。路地奥に建てられているのは本陣跡碑と明治天皇聖蹟碑。すぐ隣が脇本陣のはずだが今は表示が無いため確認できない。


高札場跡町名碑本陣跡の先で道は二手に分かれるので左側の道を進むと、またまた二手に分かれる。今度は右側の道を行く。つまり三つに分かれた道の真ん中が旧東海道。分かれ道の所が「高札場跡」(左)で、ここに小さな高札が復元されている。 

先ほどから時々見かけるようになったのが戸時代の町名を刻んだ「町名碑」(右)。土山宿では旅籠跡碑をこれでもかというほど見せられたが水口宿は町名碑があちらこちらに。
  


問屋場跡説明碑からくり時計内の曳山からくり時計高札場跡碑から数分、白壁の前に四角い石が置かれているが これは説明板を兼ねた「問屋場跡説明碑」(左)。 

さらに数分歩いた先の交差点手前に設置されているのは「からくり時計」(右)。水口宿の祭りに使われる「曳山」(右)がモチーフになっており時間が来ると曳山が動き出す。

ここから平成18年5月25日

芭蕉句碑アーケード商店街からくり時計の交差点を右に曲がり突き当たりの階段を上ると鴨長明が得度したという大岡寺(だいごうじ)。 山門を入ると右手に「芭蕉句碑」(左)がある。
   命二つ 中に活きたる 桜かな  芭蕉  
水口八景の一つ、大岡寺の桜を詠った句。

街道に戻り西へ向かうと「アーケード商店街」(右)となるが、ここが旧東海道。四日市宿で初めてアーケード商店街の東海道を見たときはビックリしたが2回目ともなるとこれも有りかな、と。
 コメント:アーケードは平成20年に撤去されました。

3本の道が合流 真ん中が旧東海道曳山アーケード街を抜けると先ほどの「3本の道が合流」(左)。旧東海道は真ん中の道。合流点の真ん中に設置されていたのはからくり時計

すぐ先が近江鉄道の踏切であるが久しぶりの鉄道線路。踏切を渡ると右側が水口コミュニティーセンター。ここに「曳山」(右)が展示されており見学自由なので ちょっと覗いてみるとよい。立派な曳山を目の前で独り占めできる。外に出たら地元のお婆さん、「どこから来たの」「横浜からです」「異人さんの街?」  こりゃまいった。


水口石水口林口一里塚跡碑曳山を見た後しばらく街道を歩き湖東信金の前を右に曲がったら その先を左に曲がり、もう一度左に。その先100mほどの所に「水口石」(左)と呼ばれる石がある。これは浮世絵師国芳が錦絵の題材にしたという力石

水口石の前を右に曲がり2〜3分歩くと 百件長屋跡 が有るはずだが面影などは何も残っていないので確認出来ない。突き当りの丁字路手前が五十鈴神社。左脇に建てられているのは江戸から112番目の「水口林口一里塚跡碑」(右)。


水口西見付跡水口城角櫓一里塚跡碑の前を左に曲がり50〜60m歩くと交差点となるが、ここが「水口西見付跡」(左)。だがここも表示が無いので分かりにくい。旧東海道はこの交差点を右に曲がって行くのだが左に曲がって寄り道を。

5分ほど歩くと水口城 別名碧水城と言われた城址がある。水口城は元々は寛永11年(1634)に徳川家光が上洛するに際して築かれた宿館。天和2年(1682)、加藤明友が水口藩を成立させ水口城を居城とした。12代続いたが明治維新で廃城。今も周囲の水堀と石垣が一部残っている。平成3年(1991)に造られた資料館は「角櫓」(右)を模したもの。 


北脇縄手美富久酒造西見付跡の交差点からちょっと歩くと造り酒屋の「美富久酒造」(左)。店先のこも被りと杉玉(酒林)そして なまこ壁がなんとも良い雰囲気。この雰囲気は都会では味わえない。  

造り酒屋を後にして「北脇縄手」(右)に入ってきたが この道が長い!見渡す限りの直線。しかし景色が良く途中に松並木や休憩所も。休憩所の後ろは麦畑。まもなく麦秋が美しいだろう。


泉一里塚(復元)横田大常夜灯松並木の終わりから左の道に入り舞込橋を渡ると前方に「泉一里塚」(左)が見える。元々はもう少し野洲川寄りにあったが、この地にモニュメントとして整備・復元。

さらに道なりに歩き県道まで来ると「横田大常夜灯」(右)がそびえている。かつて横田川(現野洲川)の渡しと言われたこの場所に文政5年(1822)に建立された常夜灯で、高さが10.5mという巨大なもの。その昔は一晩中火が灯されていた。

今は対岸に渡るには1kmほど下流の横田橋を渡らなければならない。橋まで到着すると、なんと歩道は橋の右側。歩道橋を上り下りしてやっと橋を渡ることが出来る。JR草津線三雲駅前の道が旧東海道で右へ曲がって行く。が、ちょっと寄り道がしたい。左へ曲がり5分ほど歩くとここにも小さな横田渡常夜灯があるので、この前を右に曲がりJR草津線の踏切を越えて行く。

天保義民の碑天井川のトンネル踏切を渡り丘を登ると「天保義民の碑」(左)に行く着く。幕府の命で始まった検地は極めて過酷。周辺1万数千人の農民が立ち上がり農民一揆を起こして検地日繰り延べの権利を獲得した。だが80余名が厳しい取り調べを受け多数が命を落としたという悲しい歴史の碑。 

旧東海道に戻り三雲駅前を通ってしばらく歩くとトンネルがある。ここが話に聞いた「天井川」(右)。トンネルの向こう側から上がってみた。 樹齢700年という弘法杉がそびえている。が、川に水は流れていない。


夏見一里塚跡付近夏見立場の表示「夏見一里塚跡」(左)に説明板が設置されたことが分かりましたので追記いたします。
天井川のトンネルを出て15分ほど歩いた先の民家前に「夏見一里塚」(左)と題された説明板(赤矢印)が設置されています。しかし残念ながら一里塚の一般的な説明だけで夏見一里塚のことは記されていない。
この写真はGoogleマップのストリートビューから転載しました。

一里塚跡の50メートルほど先に立派な「夏見立場の表示」(右)がありましたが、これは残念ながら撤去され今はありません。

天井川のトンネル北島酒造その先4〜5分歩くと再び「天井川」(左)が。天井川のトンネルを出て10分、十字路の向こうに見える真っ赤な暖簾を下げた店は「北島酒造」(右)。店先には こも被りが積まれ杉玉が下がっている。造り酒屋の店先はどこも良い雰囲気だ。


水口宿の西見付跡を出てから飽きない程度に見所があり 気がつくと これより石部宿という看板が立っている。ところで先ほどから蕎麦屋でもコンビニでもよいから食事ができないかと探しているのだが一向に現れない。石部宿まで行けば食事ができるだろうか。

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