(51)石部宿
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日本地図の中心線「東経136度00分00秒」を通過
「日本の中心」ではない。 街道地図 |
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「京立ち石部泊まり」 と言われた石部宿は京都から9里約36km、江戸に下る旅の最初に泊まる宿場であった。
宿場内には本陣2軒、旅籠が32軒有ったが当時の面影はほとんど残っていない。 |
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吉姫神社から20分ほどの交差点手前に「高札場跡」(左)があり 交差点の向こう側には問屋場跡の表示。 コメント:問屋場跡の先に三大寺本陣跡の説明板が設置されました。
さらに数分歩くといしべ宿驛の看板が。ここは囲炉裏の有る休憩所とでも言おうか。
いしべ宿驛のちょっと先に「石部本陣跡」(右)と刻まれた石碑が建てられているが、ここは小島本陣跡。その後ろには明治天皇聖蹟碑が。この本陣は間口45間、建坪775坪というから、とてつもない大きさ。昭和43年(1968)に取り壊されてしまった。あーもったいない。
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小島本陣跡から数分、路地奥の真明寺に「芭蕉句碑」(左)がある。
つつじいけて その陰に 干鱈さく女 芭蕉
「つつじをいけていると、傍らに鱈の干物が干してあり、農家の使用人の女がいる」という情景だそうだが。
街道を西に向かうと「田楽茶屋」(右)休憩所が。「東海道五十三次石部宿」に描かれた立場の田楽茶屋を模して建てられているのだとか。パンフレットなども入手できるので休憩がてらの情報収集に最適。
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田楽茶屋を出て左に曲がり(街道を来た場合は右に曲がる)、突き当たりを左に曲がると、そこは「石部一里塚跡」(左)。木板に一里塚とだけ記されている。その先の交差点向こう側は見付跡だ。 コメント:石部一里塚跡の説明板が設置されました。一里塚跡の先に西見付跡の説明板が設置されました。
5〜6分歩いた先の公園は「西縄手跡」(右)。かつては松並木があり、道中をリラックスして歩いてきた大名行列がここで隊列を整えて宿場に入っていった場所。ここには東屋があるが石部宿はやたらと休憩施設が多い。嬉しいことだ。
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西縄手から30分ほど歩くと新善光寺道 是より1町と刻まれた道標がある。つられて右に曲がり「新善光寺」(左)に立ち寄ってみた。平家一族の末裔・小松宗定なる人物が信濃善光寺を四十八回参詣。夢のお告げに現れた如来様を招来されたのだとか。
街道に戻り10分ほど歩くと六地蔵跡、さらに数分先の古民家は「旧和中散本舗」(右)。家康の腹痛をたちまち治してしまった ということで一躍有名になった和中散の製造・販売を行っていた大角家。この建物は江戸中期の建築で間宿の本陣としても使われていたという由緒ある建物だ。
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2〜3分歩くと小さな公園があり、その一角に「東海道一里塚」(左)と刻まれた石碑が建てられているが ここは116番目の六地蔵一里塚跡。そばに小さな小さな塚が造られており塚の上には榎ならぬ桜が植えられている。
東海道と刻まれた石塔などを見ながら20分ほど歩くと「東経136度・子午線」(右)と刻まれた石柱を目にした。「東経136度に何か意味があるの」と言われると返答に困るが日本地図の中心線だよ。
コメント:「東海道」と刻まれた石標は撤去され、現在はありません。
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さらに少し歩くと「東海道すずめ茶屋跡地」(左)と刻まれた石碑がある。すずめ茶屋とはなかなか粋な名前だが何故 すずめ なのかは分からない。豆腐田楽が人気だったようです。
茶屋跡の先の交差点を渡ると左側は上鈎(まがり)池の堤防。堤防の中程に「鈎の陣碑」(右)と多数の歌碑がある。六角氏討伐のため近江に出陣した将軍足利義尚は、鈎の安養寺に陣を構えたが25歳という若さで没し六角氏あやうく命拾いしたという。
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鈎の陣碑を後にしてテクテクト歩くこと20分。ほどなく丁字路に突き当たる。正面が堤防だが堤防の下に「東海道 やせうま坂」(左)と刻まれた道標が。やせうま?変な名前の坂だが説明が無い。資料を調べても分からない。うーん、気になる坂だ。
追記:「東海道 やせうま坂」 気になる坂だったが云われが分かりました。「今は緩やかな坂だが、その昔は馬も痩せるほどの急坂だったのでやせ馬坂」なのだとか。旧東海道を日本橋から京都三条大橋までご夫妻で歩いたY様が、地元の方から由来を聞きメールしてくれました。ありがとうございます。
道標の前を右に曲がり数分歩くと左にカーブ。曲がって3〜4分歩くと民家前に 「東海道一里塚」(右)と刻まれた一里塚跡碑が建てられているがここは 目川一里塚があった場所。
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再びテクテクと十数分歩くと「田楽茶屋伊勢屋跡」(左)の説明板。その先にも立場茶屋跡の説明板が並ぶ。元伊勢屋は広重の東海道五十三次石部宿に描かれた茶屋で菜飯と田楽が名物だった。コメント:現在は「京いせや跡」と刻まれた石碑が建てられています。
立場の先で道なりに右に曲がり、しばらく歩くと「老牛馬養生所跡碑」(右)と説明板が民家の生け垣の中に建てられている。老牛馬であっても すこやかな余生を送ってもらおうと岸岡長右衛門なる人物が養生所を設立したのだという。なんと心優しいお方だろうか。
このすぐ先で栗東市から草津市に入る。「どうせ通らにゃならねえ草津の追分けよ」と森ノ石松がつぶやいた草津の追分け、そして草津宿が近い。
草津宿には日本最大級の本陣が現存しているという。
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