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街道松 東海道五十三次道中記 街道松
(52)草津宿  ついに中山道との追分けに到着   街道地図
草津宿は京と江戸を結ぶ東海道・中山道の追分けの宿場として賑わっており、本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠は70余軒あった。
中でも田中七左右衛門本陣は日本最大級といわれた本陣で、大名はもちろんのこと、土方歳三やシーボルトなども宿泊。
現在は修復されて一般公開されているので ぜひ見学したい遺構だ。

 平成18年6月11日
栗東市から草津市へ入った旧東海道は、「左側の堤防の坂道」(左下)を上り旧草津川を越えて行く。

堤防へ上がる道が旧東海道いろはモミジ碑草津宿東入り口常夜灯土手下に「いろはモミジ碑」(左)があるのでちょっと寄り道。かつて、ここに樹齢150年以上のモミジがあったが、今は何代目かの小さな小さなモミジが植っているだけ。

旧草津川を渡り右へ下って行く途中に「常夜灯」(右)があるが、支柱が道標というなかなか面白い造り。夜は灯台元暗し がちょっと残念だが。道標に刻まれた文字は「左東海道いせ道 右金勝寺しがらき道」。


追分け道標常夜灯旧中山道のトンネル坂を下って10分ほど歩くと丁字路に突き当たるが、ここが草津の追分け。「追分け道標常夜灯」(左)には「右東海道いせみち 左中仙道みのじ」と刻まれている。ついに中山道追分けまで歩いてきた。

道標の下には「旧中山道のトンネル」(右)が口を開けている。上は旧草津川で江戸時代は土手を上って向こう側に渡っていたが明治中頃にトンネルが掘られ土手を上らなくてもすむようになった。ちなみに国道1号も旧草津川の下をトンネルで。


高札場(復元)堯考(ぎょうこう)法師歌碑トンネルの左側は「高札場」(左)で小さな高札が復元されている。トンネルに入ると中山道を通って江戸に行かれるが今回の行き先は京都。丁字路まで戻り旧東海道へ。

丁字路の先に「堯考(ぎょうこう)法師歌碑」(右)があるが辛辣な詩が刻まれている。
 近江路や 秋の草つは なのみして 花咲くのべぞ 何処ともなき  覧富士記
近江路を草津まで来たが、秋の草花が美しい野辺を想像していたのにずいぶん違うものだ。


草津本陣本陣屋敷門歌碑の斜め向こう側が「草津本陣」(左)。その左手が「屋敷門」(左)。

草津本陣は寛永12年(1635)に創建されたが大火で焼失。現在の建物は享保3年(1718)に膳所藩主本多家が所有していた 瓦ヶ浜御殿を移築。パンフレットによると建坪四百六十八坪、桟瓦葺き平屋妻入りで部屋数は三十余室、二百六十八畳半とある。二川宿の本陣が、建坪233坪で驚いたが、その倍の大きさだからいかに大きいかが分かる。


草津宿脇本陣跡草津宿田中九蔵本陣跡説明板本陣のちょっと先左側の建物が「脇本陣跡」(左)で、脇に建てられた石碑に刻まれている文字は草津宿脇本陣跡
今は観光物産館・お食事所になっているので脇本陣料理でも賞味するか。と思ったら脇本陣だからといって特別なメニューは無い。脇本陣御膳でも用意するといいのに。
  コメント:その後ベーカリー・カフェに変わっています。

残念なのが もう一軒の本陣。脇本陣跡から数軒先の商店の壁に「草津宿本陣跡」(右)と板書されているが追いやられた感じがする。せめて石碑ぐらいと思うのだが、何か経緯があるのだろうか。


アーケード商店街の旧東海道太田酒造ちょっと先が、「アーケード商店街の旧東海道」(左)。江戸時代から続く商店街だろう。素晴らしいではないか。実は先ほどのトンネルを通った先の中山道はもっと立派なアーケード商店街に変身。
 コメント:アーケードは平成23年に撤去されました。
アーケードに入ると、すぐの左側に草津宿街道交流館があるので覗いてみるとよい。

商店街の終わり頃に見たのは「太田酒造」(右)の酒蔵。太田酒造は太田道灌を遠祖に持つ名家で、問屋場を預かり、隠し目付を勤めるなどしていたので政所とも呼ばれていた。


立木神社石造道標県道を横断した先の「立木神社」(左)は神護景雲元年(767)の創建という大変な古社。延暦20年(801)、坂上田村麿が東北鎮圧に際して道中安全と厄除開運を祈願したとも伝わっている。

その境内に滋賀県で最も古いという「石造道標」(右)がある。
「みぎハたうかいとういせミち ひたりは中せんたうをた加みち」と刻まれたこの石碑は文化13年(1816)の道標(現在の追分道標)以前のもので延宝8年(1680)の建立だとか。

やばせ道道標野路一里塚跡碑やぐら橋を渡ると まもなく瓢箪店の前に大きな石柱が立っているが これは安藤広重の「五十三次草津宿」の茶店横にあった「やばせ道道標」(左)。道標には「右やばせ道 これより廿五丁 大津へ舟わたし」と刻まれている。やばせ とは近江八景の一つ琵琶湖の矢橋湊のことで大津まで船便があり近道として利用されていた街道。

やばせ道道標前の街道をさらにテクテク歩くと国道一号にぶつかるが、ここを横断して数十メートル入ると上北池公園があり、その一角に建てられているのは江戸から118番目の「野路一里塚跡碑」(右)。


萩の玉川弁天池野路は平安朝から鎌倉時代にかけて宿駅として大変に栄え、また名泉玉川と萩の名所でもあった。「萩の玉川」(左)とも言われた当時を摸した公園に源俊朝の歌碑がある。
    あすもこむ 野路の玉川 萩こえて 色なる波に 月やどりけり

萩の玉川からしばらく歩き見えたのは「弁天池」(右)。池の真ん中に島があり弁財天が祀られている。都会では見ることができなくなった自然の池。こんなところでノンビリ釣りでもしたらストレスも解消だ。


道中記を読まれた方から「旧東海道って人も車も通らないところなんですね」と言われたが、いやいやそんなことはないんですよ。
確かに静かなたたずまいの場所が多いですが、ここ草津宿は結構人通りが多いところでした。中山道入り口のトンネルの写真ですが、人が途切れた一瞬に撮ったもので本当は人の行き来が多い場所なんです。でも、人が写っていた方が賑やかでいいかもしれませんね。

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