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富士道 道中記

(1)大月追分から十日市場まで   (2)十日市場から下吉田まで   (3)下吉田から富士浅間神社まで

(3)下吉田から富士浅間神社まで 街道地図

いよいよ富士吉田市に入ってきた。地蔵尊や馬頭観音、道祖神を探しながらかれこれ30分、
国道139号の商店街に入ると遥か彼方まで上り坂、その先に富士山が見える。

金鳥居を潜ると富士講の宿である御師の家が並ぶ上吉田宿。だが上り坂はまだまだ続く。
上宿交差点を左に曲がり10分、国道138号際の鳥居を潜ると杉並木と石灯篭の長い参道が。
その先は千九百年の歴史を持つ北口本宮富士浅間神社。
 無事に歩き終わったお礼の参拝をして旅の終了である。

平成30年12月17日

桂川に架かる焼橋を渡って10分ほど歩き国道139号富士見バイパスを横断したら左の細い道に入って行く。金毘羅神社脇の坂道を下ると川沿いに30基以上の「馬頭観音」(左)が並んでいる。これだけ沢山並ぶと見事なものだ。

橋を渡った先の建物は「愛染地蔵堂」(右)。歴史は大変に古く、安置されている愛染厄除地蔵尊とともに文明14年(1482)の創建だという。その後幾多の変遷を経て平成4年(1992)にお堂が立て替えられ、平成28年(2016)に地蔵尊が修復され今の御姿に。

愛染地蔵堂から15分ほど歩くと国道139号の商店街に入るがその途中にも幾つかの石仏・石塔が見られる。
 地蔵堂から数分歩き十字路を左に曲がって
4~5分、丁字路の角にあったのは
道祖神
 丁字路を右に曲がった先の道路際に
ちょっと珍しい
平板型六地蔵
 その先の富久松東店脇を入った奥に
見える石塔は
浄土三部経塚碑
 道路際にある庚申塔には青面金剛王と
刻まれている。
 今はほとんど見られなくなった金看板
旧山一酒店に残されてた。

旧山一酒店先の交差点を左に曲がると富士山が真正面に見える「国道139号の商店街」(左)。朝のうちは雲に隠れていた山頂がクッキリと見えるようになってきた。

緩い上り坂を十数分、ピザ店の前にある大きな台座の石塔は「道祖神」(右)。

さらに7~8分上ると交差点の向うに「金鳥居」(左)が見える。俗界と神聖な富士山の「結界」として天明8年(1788)に建てられた後、何回か建て直しが行われ現在の鳥居は昭和31年(1956)に建てられたもの。浅間神社の一の鳥居というよりは富士山の鳥居と考えられている。

金鳥居交差点際に「道標」(右)が建てられている。刻まれている文字は「右ハ江戸ミチ 左ハ甲州ミチ」。富士山の文字が見えないが、ここまで来れば必要ないか。

金鳥居から数分歩くと鳥居の内側に「道祖神」(左)が3基。左側の石塔には「賽大神」と刻まれているが 賽の神 の事だろう。これも道祖神の一種。

さらに数分歩いた右側の立派な門は寛政8~9年(1896~1897)頃建立されたと考えられる「浅間坊表門」(右)。浅間坊は元亀元年(1570)の古文書にも出てくる御師の家筋で、昭和の終わり頃まで多くの富士講を迎え入れていたという。現在は富士吉田市に寄贈され、修復されて一般公開されている。

最盛期には86軒もの御師の家があったというが、今も 御師*** と記された提灯があちらこちらで見られる。

その中でも浅間坊表門の斜め先、タツミチ(引き込み路)を入った奥の「御師旧外川家住宅」(左)は一般公開されており内部の見学ができる。主屋は250年前の明和5年(1768)に建てられたもので国の重要文化財となっている。裏座敷も160年近く前の万延元年(1860)の建築。 

外川家住宅を出て100mほど先の細い道を入ると江戸中期に富士講登山の礎を築いた食行(じきぎょう)身禄を祀った「身禄堂」(右)がある。富士山7合目の烏帽子岩で即身仏となった行者で、堂内に食行身禄像が祀られている。

富士道に戻り10分ほど歩くと上宿交差点。ここを左に曲がり5~6分歩くと食行身禄碑があり、その先に多数の富士講碑などが建てられた「石塔群」(左)がある。

石塔群のすぐ先が富士浅間神社参道入り口で、「鳥居」(右)が建てられているが、この鳥居の扁額には「富士浅間神社」ではなく「冨士山」と記されている。そういえば金鳥居の扁額も冨士山となっていた。ということはこの鳥居も 富士山 のための鳥居だ。ここでちょっと新しい発見、扁額の文字は「富士山」ではなく「冨士山」。理由はこちら。

参道の途中に「角行の立行石」(左)なる大石がある。慶長15年(1610)、富士講の開祖角行東覚が酷寒の中を裸身で石の上に爪立ち30日の荒行をしたという。その角行は正保3年(1646)に百六歳で大往生。

参道の先に「富士山大鳥居」(右)が見える。最初に建立されたのは文明12年(1480)、以来60年に一度建て替えられるが、木造鳥居では国内第一の大きさ。 扁額には「三国第一山」と記されている。その三国とは大和(日本)、天竺(インド)、唐(中国)のこと。その中で一番大きな山が富士山であると。

大鳥居を潜ると、「随神門」(左)、神楽殿、左手に手水舎と続く。 随神門は元文元年(1736)、神楽殿は元文2年(1737)、手水舎は延享2年(1745)の建立。手水舎の木鼻彫刻が素晴らしい。
 「拝殿」(右)の奥深くにある本殿は谷村城主・鳥居土佐守成次が元和元年(1615)に建立したもの。

浅間神社の歴史は大変に古く、由緒によると、景行天皇40年(110)に日本武尊が東征の折り、箱根足柄から甲斐国酒折宮に向かう途次、富士の霊峰を遥拝。その地に祠を建て祀ったのが始まりとされている。

拝殿の左側から裏に回ると重要文化財の東宮本殿、西宮本殿が見られる。

拝殿の右側奥に見えるのは「吉田口登山門」(左)。お山開き前日に鳥居に張った注連縄を切って富士山登山の開始が告げられる。

 その先の「祖霊社」(左)に祀られているのは富士講の開祖・角行とその弟子の食行身禄及び江戸時代に浅間神社の大改修を行った村上光清。

帰りの富士急富士山駅ホームから見た富士山は夕日にうっすら染まり
殊の外綺麗だった。

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