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筏道 道中記

(1)六郷から多摩川台公園まで  (2)多摩川台公園から狛江まで  (3)狛江から大國魂神社まで

(1)六郷から多摩川台公園まで 街道地図


筏道は旧東海道六郷の渡しから分かれ多摩川に沿って北進。矢口の渡し辺りからちょっと内陸に入って
武蔵新田、下丸子を通り、鵜ノ木の先からは六郷用水跡の遊歩道を歩き再び多摩川沿いに。
丸子橋際で中原街道を横断し東急東横線のガード下を通っていく。 その先右手の多摩川台公園に上り
亀甲山古墳を見て本日の筏道歩き終了とした。
このコースには南北朝時代の武将・新田義興に係わる遺跡が多く見られる。
  

令和元年9月11日

まず向かったのは京浜急行六郷土手駅から3~4分の「北野天満宮」(左)。別名「止め天神」の愛称で親しまれている。
江戸時代、八代将軍吉宗が乗った馬が暴走。ところが天神様の前でピタリと止まり危うく落馬をまぬがれたという。以来、悪い事を止める天神様として人気がある。

この地は旧東海道の 六郷の渡し があった場所。説明板によると中世から近世初頭にかけて何度も架橋されたが洪水で流失。その後は明治に入るまで渡し舟であった。明治7年(1874)に木橋が掛けられたがこれも流失。強固なコンクリート橋が架けられたのが大正14年(1925)。その時の「橋門と親柱」(右)が裏の宮本台緑地に保存されている。

北野天満宮を出て多摩川の堤防に上がると左手に国道15号(第一京浜)の六郷橋が見え、右手に京浜急行の鉄橋が見える。鉄橋下を潜り、東海道線の鉄橋下も潜ると広々とした「河川敷の向うに何棟ものタワーマンションが見える」(左)。かつての京浜工業地帯だが すっかり景色が変わってしまった。

多摩川沿いを北進した筏道だがこの辺りはルートがはっきりしない。ということで しばらくは堤防上の道を歩く事に。かれこれ20分ほど歩いたら堤防を下り安養寺に寄り道を。江戸時代には古川薬師として人気があり行楽地となっていた。その門前に「古川薬師道 道標」(右)が建てられている。延宝2年(1674)に旧東海道の雑色から多摩川道に入る分岐点に建てられた道標だが区画整理のため現在地に移されたもの。

堤防上の道に戻りかれこれ20分。国道1号(第二京浜国道)下のトンネルを抜けたら右へ曲がって行くのだがその曲がり角に鎮座しているのは建長2年(1250)の創建と伝わる「東八幡神社」(左)。
鳥居の下に「矢口の渡し跡碑」(左)が建てられているが、ここは新田義興が謀殺された場所。正平13年(延文3年 1358)、小舟で川崎側に渡ろうとした義興は船頭頓兵衛の罠に嵌まり無念の死を遂げる。

神社沿いに右へ曲がって数分、円応寺の墓地入口に立つ「庚申塔」(右)は寛文12年(1672)の造立という古いもので大田区の文化財。もとは現・矢口三丁目の旧道沿いに建てられていた。

東急多摩川線の武蔵新田駅に通じる商店街の途中に鎮座するのは新田氏に係わる「十寄神社」(左)。 新田義興とともに渡し舟に乗った従者のうち十名は義興とともに憤死。その後、忠烈を極めた従者を崇め村老らが墳墓を築き 十騎神社と名付けてその功績を称賛したという。いつの頃からか十寄神社に。

十寄神社の数分先、丁字路際の祠の中に見えたのは「庚申塔と阿弥陀如来像」(右)。この庚申塔はショケラをぶら下げている。風化が激しいが立派な覆堂に納められており大切にされているようだ。

数分先の「新田神社」(左)は新田義興を祀った神社。義興の死後、矢口付近には夜々怨念が「光り物」となって現れ人々を悩ませた。そこで御霊を鎮めるため村人が墳墓を築き社祠を建て新田大明神として崇めたという。その墳墓が社殿裏の「御塚」(右)。直径15メートルの円墳で、柵に囲われているがこの中に入ると必ず祟りがあることから 荒山、迷い塚 とも言われていた。

御塚の後部には決して神域を越えることが無い不思議な篠竹が生えていたが、蘭学者の平賀源内がこの竹で「矢守(やもり)」を造り御祭神の御神徳を崇めたという。この矢守が破魔矢の元祖なのだとか。

新田神社を出たら商店街を歩き東急多摩川線の踏切りを越えると、その先に「頓兵衛地蔵堂」(左)が見える。鎮座しているのは新田義興謀殺に加担したことに悔いた船頭頓兵衛が冥福を祈って建てたと伝わる地蔵尊。堂内を覗くと表面が熔けてしまったような地蔵尊が。これは義興の祟りでとろけてしまったのだという。またの名を「とろけ地蔵」。

7~8分歩いた先、五差路際の石塔は「光明寺道標」(右)。この先の光明寺へ向かうための道標で、上部が欠けているが真ん中に「大師霊場」と刻まれ、正面右側に「是より右へ三丁」、左側に「うの木 光明寺」とある。

その「光明寺」(左)は天平年間(729~749)に行基が開き、のちに空海が再興したという古刹。

本堂の裏、鐘楼脇「光明寺荒塚古墳1号墳」(右)は新田義興謀殺の首謀者江戸遠江守高良の墓とも云われている。

義興謀殺後、自分の館に帰ろうと光明寺まで来た江戸高良は雷に撃たれ、もがき苦しんだ末に息絶えたとされているが その江戸高良の墓がこの塚だという。近在の村人には義興の怨霊によるものだからこの塚には近づくな、という言い伝えがあったそうだ。

少し戻り環状8号を横断した先を左に入る道が筏道のようだが ちょっと寄り道したいので北側のぬめり坂を上って行くことに。雨が降るとぬめって上れなかったので「ぬめり坂」だとか。

坂の途中にある三叉路に「庚申塔と道標」(左)が。この庚申塔は延宝5年(1677)の造立。左脇の道標は昭和3年(1928)に建てられたもので、正面に「前 池上本門寺大森 矢口新田神社川崎 方面」と刻まれ、右側面には「↗***久ケ原 五反田 方面」、左側面に刻まれた行き先は「↗峰御嶽神社 奥沢 大岡山 洗足池 方面」。

三叉路を左に入り4~5分歩くと、右手に「鵜ノ木八幡神社」(右)が鎮座。由緒によると、延徳元年(1489)に下野国佐野から鵜ノ木村へ移住してきた天明五郎右衛門光虎が一族の守護神として八幡大神を祀ったのが起源とされている。天明家は平安時代に旧河内国から佐野へ移住した鋳物師を祖とし、鵜ノ木村へ移住後は一帯を開拓し当地の名主となっている。

神社前の坂を下り、環状8号を横断した先でちょっと寄り道を。 向かった先は鵜ノ木松山公園。この辺りの周辺台地には古墳時代から奈良時代にかけて多数の横穴墓が造られている。その中で最も大きい「6号墓」(左)は奈良時代前後に造られたと考えられているもので、整備・保存され内部の見学が可能。

筏道に戻り4~5分、右手の小公園は「女堀跡」(右)。六郷用水の開削工事でこの辺りは堅い地盤のため工事が難航。 女性も動員して開削したので「女堀」とも、工事代官小泉次太夫の夢枕に女神 (この先の浅間神社の祭神・木花咲弥姫)が現れ お告げ通りに工事を行ったから「女堀」とも。女堀跡の反対側、階段上の小さな祠の中に納まっているのは庚申塔。

女堀跡から数分、道路脇の小川は「六郷用水跡」(左)。 六郷地方の米の増収を図るために建設された灌漑用水で、今は復元されたささやかな流れが。この先の多摩川浅間神社下からは丸子川と名を変えて現存。

途中には六郷用水跡碑などもあるが、「六郷用水洗い場跡」(右)なども復元?されている。この場所は「東京の名湧水57選」に選ばれた場所で かつては豊富な湧き水で賑わった洗い場だったそうだ。今は湧き水には程遠い。

筏道は六郷用水に沿って密蔵院前を通り、新幹線のガード下を歩き、東光院横を歩き、中原街道を横切るトンネルまで来るとその先は東急多摩川線で分断されてしまう。ここはトンネル脇の階段を上がって六郷橋の前に出る。

中原街道を横断し数分歩いた先の「多摩川浅間神社」(左下)は鎌倉時代の創建。

由緒によると、源頼朝が滝野川に出陣した時、後を追った北条政子が多摩川河畔に逗留。近くの亀甲(かめのこ)山に登ったところ富士山が鮮やかに見えた。富士山麓の浅間神社は政子の守り本尊、身につけていた聖観音像をこの丘に建て夫の武運を祈ったという。以来、この像を村人たちが富士浅間大菩薩として祀ったのが当神社の起こり。

浅間神社を出て東急東横線のガード下を通り、多摩川台公園に上ると「亀甲山古墳」(右)が目の前に見える。古墳時代前期の築造で全長107メートルという大きな前方後円墳。残念ながら樹木が鬱蒼と茂り全容を見ることはできない。
ここは多摩川を眼下に見下ろす高台。木陰に入ると心地よい風が吹き抜けて休憩には最適。 

 筏道歩きの初回はここまでとした。

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